宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第4章 “こころ”と世界
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 おそらく、境氏がこのような理論を考えたのは、「心象スケッチ」とは“こころ”の中に生じたイメージを描くものだとする諸家の見解に、しっくりしないものを感じているからではないかと思います。

 宮沢賢治の描く自然の動きは、“こころ”に生ずるイメージをただ描いたにしては、あまりにも躍動的で生々しい現場感にみちています。そのため、そのギャップを“科学的に”説明する必要に迫られて、「直観像素質者」というような想定に至ったのではないでしょうか。

 しかし、賢治の詩は“フラッシュバック”だというような“合理的”説明では、賢治詩の“創造の秘密”に対して、なんら解明的な手がかりを与えたことにならないと思います。


◇    ◇


 この境氏の説から想起されるのは、画家セザンヌの眼疾患説です。セザンヌは、西洋の伝統的な遠近画法に疑問を持ち、特異な構図(デフォルマシオン)の風景画や静物画を描きました。しかし、それらの絵を見た批評家たちは、セザンヌは眼に異常疾患があって風景がおかしく見えるのだと評したり、セザンヌの分裂病気質に原因を求めたりしました。たとえて言えば、「ベートーヴェンは耳が聞こえないから、また頭がおかしいから、変な音楽を作るのだ。」と批評するようなものです。そして、セザンヌ自身、自分の絵は、自分の頭や眼がおかしいせいではないかという疑惑にしばしば陥っていました。

 ところが、セザンヌの絵は、亡くなる少し前からたいへん評判になり、死後には、キュービズムなど20世紀絵画の先駆者として高く評価されることとなったのです。

 “宮澤賢治は、常人とちがうこれこれの超能力があったので、こういう詩を書いた。”という評価は、一見すると、セザンヌの場合とは違って、本人の評価を高めているように見えます。しかし、作品の特質を、作家の異常な特質の結果として説明する点は変わりません。このような説明が、作品の理解に寄与するのかどうか、私はたいへん疑問に思います。


 



「バルザックやセザンヌが考える芸術家は、開化した動物であることに満足してはいない。そもそものはじめから、文化を引き受け、それを新たに築きあげる。最初の人間が語ったように語り、かつて誰ひとり描いたことのなかったかのごとく描くのである。
〔…〕

 彼は、その作品を、ちょうど或る人間が、その最初の言葉を、それが或る叫び以外のものになるかどうかも、それが生まれ出たひとりひとりの生の変転から離脱しうるかどうかも知ることなしに、
〔…〕発するように、世に投ずるのである。〔…〕

 われわれは、セザンヌにおけるさまざまな所与を数えあげ、さし迫った四囲の状況についてでも語るようにそれらについて語っているが、
〔…〕それらは、彼が生きなければならぬものとしておのれを彼に示し、それを生きる生き方は無限定のままにしておくというかたちで、立ち現れえたにすぎないのである。〔…〕

 実情は、作られるべきこのような作品が、このような生を要求したということなのだ。
〔…〕

 セザンヌが絵の中で事物や顔に与えることになる意味は、彼に立ち現れてきた世界そのもののなかで彼に提示されていたのであって、セザンヌは、それを解き放っただけだ。彼が見るがままの事物そのものや顔そのものが、こんなふうに描かれることを要求していたのである。そういうわけだから、セザンヌは、それらが語ろうとのぞんでいたことを語っただけだ。

「セザンヌの疑惑」, in:メルロ=ポンティ・コレクション 4,2002,pp.22,24-26.

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