宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第4章 “こころ”と世界
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 とはいえ‥、じっさいのところ、草野心平のように、「心象」の意味を賢治とその作品に即して正しく理解していた人は、稀れだったと言えます。

 代表的な論者による説明は、つぎのようになります(境忠一『評伝・宮澤賢治』,1968,桜楓社,pp.124-125):



「心象とはいったい何だろうか。
〔…〕賢治がこの語にふくました意味はむしろ心の現象、心の活動、一層単的には意識の明滅であったと思われる。」(宇佐美英治)

 「心象」とは、もっぱら作者の心の中の現象や活動だと言っています。



「いったい心象スケッチとはなんだろう。普通には自分の心象の世界の表現や、自分の認識や内面の世界に浮き上がるイメージや、それらの心象の詩的展開ということになるだろうが、

 作品に即してみるとそれは同時に自分を取りまく現象と、それに反応する作者の生活意識の交感であり、融合であり、」
(伊藤信吉)

 やはり、「心象」とは、「自分の認識や内面の世界に浮き上がるイメージ」であり、作者の心の中にあるものと考えています。ただ、伊藤信吉の場合には、「作品に即してみると」以下で、じっさいの賢治の「心象スケッチ」は、そのような《心理主義》的な枠に収まるようなものではないことにも気づいていますが、十分なものではありません。

 「自分を取りまく現象」と「作者の生活意識」との交感・融合という見方が平板であり、おそらく、“こころ”の内と外を区別して横合いから客観的に見ようとする《心理主義》が、理解を妨げているように思われます。



「宮沢賢治は、かれをかこむ自然を瞶
(みつ)めることによって、かれ自身の心象をみいだす。かれの魂の奥にひそむもの、うごめくものが、自然現象の起伏にしたがって、よびおこされる。」(中村稔)

 やはり、「かれの魂の奥にひそむもの、うごめくもの」、つまり作者の深層心理の中にあるものが呼び起こされて「心象」になると言っています。そして、周囲世界を見つめることによって呼び起こされた“こころ”の中の動きを描くことが「心象スケッチ」だとする中村稔氏の読み方は、恩田氏の場合と同様に、風景の驚異を実写することに主眼のある賢治の諸作品を、《心理主義》的に、作者の“こころ”の中を描くものとしてのみ扱うことになってしまいます。

 ちなみに、中村稔氏が、長詩「小岩井農場」を「冗長」であるとして低く評価していたことは
(現在では見解を変えておられますが)、このような氏の《心理主義》的な読み方と関係があるかもしれません。

 以上のように、《心理主義》では、宮沢賢治の観た世界、描いた世界を十分にとらえることができないだけでなく、場合によっては、賢治作品を、作者の“こころ”の中を描くものという、不相応な狭い枠に押し込めてしまうことになります。あるいは逆に、賢治の“こころ”を「宇宙意識」といった巨大な“容れ物”にしなければならなくなります。


 



 つぎに、境忠一氏の見解を見ておきたいと思います。境氏は、


「賢治の『心象』が実在感を帯びていること、
〔…〕流動性を帯び、時間的に変化すること、作品に幻視や幻聴を述べたものがある」


 ことを指摘した上で、「直感像学説がそれをよく説明し得る」とします。


「直感像とは、
〔…〕或る事物を見て直ぐ後に、〔…〕時には数年後に、自然または有意的に現れて来る心像である。」
境忠一,op.cit.,p.126.


「“直感像”とは、過去に体験された視覚像がありありと想起されたもののことである。」

(田中末男,op.cit.,p.299.)


 この「直感像」は、精神病理ではありませんが、一種のフラッシュバックで、誰にでも見えるわけではありません。境氏は、宮沢賢治が、「直感像」を見ることのできる「直感像素質者 Eidetiker」であったとするのです。

 しかし、賢治の「心象」をこのように見なしてしまうならば、賢治の作品は、稀有の「直感像素質者」によるものめずらしい記録だということになってしまいます。このような解釈が、読者に対していったいどんな意味をもつのか、私は疑問に思わざるを得ません。

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