宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第4章 “こころ”と世界
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 だとすれば、この生々流転する現実世界、すなわち“現象”の世界こそが“実在”なのだと言わなければなりません。


「さあはつきり眼をあいてたれにも見え
 明確に物理学の法則にしたがふ
 これら実在の現象のなかから
 あたらしくまつすぐに起て」

『春と修羅』「小岩井農場・パート9」より。


 と、宮沢賢治は明確なコトバで宣言しています。これを図式化すれば、つぎのようになるでしょう↓



 「本体」──「仏」「神」「イデア」など ……「こころの風物」にすぎない。

  ↑ 
  ↓

 《現象》──この世 …… 実在する世界。



 これは、私たちの常識観念と同じです。宮沢賢治の頭のなかの世界、フッサールの頭のなかの世界は、私たちと同じ“常識の世界”なのです。


「哲学者のなかでも、フッサールほどの〈常識人〉はいないのではないだろうか。
〔…〕常識にとらわれているというより、常識に付き添い、それを後押ししているかのようなのだ。〔…〕常識の足もとを明るくするのである。」
岡山敬二『フッサール 傍観者の十字路』,p.104.
 


 日本では、江戸時代までが“宗教の支配する時代”、現代が“科学の支配する時代”だとすれば、宮沢賢治が生きたのは、両者のあいだを遷移する“宗教と科学のはざまの時代”でした。

 宗教と科学のはざまで悩んだすえ、宮沢賢治は、宗教も、科学も、それぞれ相対的な“真理”にすぎない、とする相対主義にたどりついたのだと思います。

 1927年以後の草稿「生徒諸君に寄せる」では、↓つぎのように、「すべての」宗教と科学に対する不信をすら表明しています:


「今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
 われらの祖先乃至はわれらに至るまで
 すべての信仰や徳性はたゞ誤解から生じたとさへ見え
 しかも科学はいまだに暗く

 われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ、」

「生徒諸君に寄せる」〔下書稿手入れ〕,『詩ノート』付録。







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