宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第4章 “こころ”と世界
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「向ふの柏木立のうしろの闇が
 きらきらつといま顫えたのは
 Egmont Overture にちがひない」


 作者の耳に、ベートヴェンのエグモント序曲の幻聴が聞こえます。魂を揺さぶるような響きのなかで、中天に懸かる木星の輝きは、“他界”のトシから送られて来る信号のように思われます。

 ここでは、「ぼうずの沼森」や「柳沢の杉」「柏木立のうしろの闇」など地上に見えるものの背後に感じられる“異世界”が、夜空の宇宙にまでつながり、そこに死者の世界――“他界”もあるように想像されています。

 しかし、その一方で、「そのどこかも知れない空間で/光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか」と、もしそんな場所ならば、“天上”のイメージにはほど遠く、それこそ死の世界そのものなのではないか?‥という疑いを消すことができません。

 恐怖そのものの“異世界”を、死後の世界につなげたために、トシが行ったはずの至福であるべき“天上”の世界は、実在の場をなくしてしまうのです。


 同じ年の8月、サハリンへ向かう列車の中で、トシの死去の状況を回想して《追体験》していた作者は、死後のトシが遭遇した世界を、さまざまに想像します:


「わたくしたちが死んだといつて泣いたあと
 とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ
 ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで
 ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない
 そしてわたくしはそれらのしづかな夢幻が
 つぎのせかいへつゞくため
 明るいいゝ匂のするものだつたことを
 どんなにねがふかわからない
     
〔…〕

 それともおれたちの声を聴かないのち
 暗紅色の深くもわるいがらん洞と
 意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
 亜硫酸や笑気のにほひ
 これらをそこに見るならば
 あいつはその中にまつ青になつて立ち
 立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
 頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち
 (わたくしがいまごろこんなものを感ずることが
 いつたいほんたうのことだらうか
 わたくしといふものがこんなものをみることが
 いつたいありうることだらうか
 そしてほんたうにみてゐるのだ)と
 斯ういつてひとりなげくかもしれない……」

『春と修羅』「青森挽歌」より。


 ↑これは、「青森挽歌」でさまざまに想像された死後世界のうちで、もっとも悲惨なヴァリエーションです。地獄のようにも見えますが、賢治は、地獄だとは書いていません。《体験》において自分の前に“現象したもの”を、‘そのまま’書いているようにも見えますが、必ずしも自由な想像ではなく、仏教哲学の知識に促された面があるかもしれません。

 しかし、仏教的な世界というより、物質である生き物の身体を分解する世界‥、一種科学的なイメージのようにも思われます。死別した肉親の意識が死後も存続していると考えたい賢治にとっては、死者が自己の物質的崩壊・消滅に立ち会うイメージは、あまりにもショッキングにちがいありません。



「感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
 それをがいねん化することは
 きちがひにならないための
 生物体の一つの自衛作用だけれども
 いつでもまもつてばかりゐてはいけない
 ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
 あらたにどんなからだを得
 どんな感官をかんじただらう
 なんべんこれをかんがへたことか
 むかしからの多数の実験から
 倶舎
〔くしゃ〕がさつきのやうに云ふのだ
 二度とこれをくり返してはいけない」

『春と修羅』「青森挽歌」より。


 死後の世界について、「がいねん」と理論に頼って考察することは、自分の心眼に見える《現象》のなまなましさから逃避することだ、と賢治は考えているようです。

 「倶舎」は、世親の『アビダルマ倶舎論』ですが、「さつきのやうに云ふ」というのが、前の詩行のどの部分を指しているのか、よくわかりません。ただ、『倶舎論』の説く“輪廻”の転生は、死ぬまでの生によって蓄積された“業”(ごう,カルマ)が、生まれ変りの人や生き物にひきつがれて、新しい身体と精神を形成するということのようです。だとすると、直前の「ほんたうにあいつはここの感官を‥」以下3行が、『俱舎論』に促された思索だということになります。

 はっきりとした意味が取れない部分も多いのですが、ともかく、ここで賢治の思索は、仏教の理念や、科学の理念が促すさまざまなイメージのあいだを激しく動揺していることはまちがえないと思われます。




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