宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ
□第4章 “こころ”と世界
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沼森(西側から)
「 ※ 沼森
この丘の
いかりはわれも知りたれど
さあらぬさまに 草穂つみ行く。
※ 同
丘丘が
つどひてなせるこの原に
なんぞさびしき
沼森の黒」
『歌稿B』#336-337 [1916年7-8月]
沼森(南側、沼森平から)
「沼森」は、岩手山の中腹にある丘ですが、現在では、周辺は起伏の多い牧場地となっています。しかし、当時は湿地の多い原野と森林で、開拓村が入植しはじめた状態だったと思われます。
上の短歌は、高等農林2年次の地質調査の時のものです。「この丘の/いかり」「さびしき/沼森の黒」とはどういうことなのか、この調査の状況をまとめた散文↓を見たほうが、よくわかります:
「はてな、あいつが沼森か、沼森だ。坊主頭め、山山は集ひて青き原をなすさてその上の丘のさびしさ。ふん。沼森め。
これはいかんぞ。沼炭だぞ、泥炭があるぞ、さてこそこの平はもと沼だったな、道理でむやみに陰気なやうだ。洪積ごろの沼の底だ。泥炭層を水がちょろちょろ潜ってゐる。全体あんまり静かすぎる、おまけに無暗に空が暗くなって来た。もう夕暮も間近いぞ。柏の踊りも今時だめだ、まばらの小松も緑青を噴く。
沼森がすぐ前に立ってゐる。やっぱりこれも岩頸だ。〔…〕
それはいゝがさ沼森めなぜ一体坊主なんぞになったのだ。えいぞっとする 気味の悪いやつだ。この草はな、この草はな、こぬかぐさ。風に吹かれて穂を出して烟って実に憐れに見えるぢゃないか。
なぜさうこっちをにらむのだ、うしろから。
何も悪いことしないぢゃないか。まだにらむのか、勝手にしろ。
柏はざらざら雲の波、早くも黄びかりうすあかり、その丘のいかりはわれも知りたれどさあらぬさまに草むしり行く、もう夕方だ、」
“沼森”は、上右の写真で見るような双耳峰ですが、南側の沼森平から見ると、平べったい丸い形に見えます(左の写真)。
湿地や泥炭が多いと言っているので、賢治らは沼森平のあたりを調査していると思われます。こちらから見ると丸い丘で、しかも、当時は植被の樹木が刈り取られて禿山状態になっていたのかもしれません。
午後は日が蔭って黒く見えますし、たしかに不気味で、怒っているようです。
「この丘の/いかり」とは、“丸坊主”にされた“沼森”が憤っているという意味でしょう。
「なぜさうこっちをにらむのだ、うしろから。」
↑作者ら(地質調査に来た学生たち)の後ろで、沼森がにらんでいるという意味です。「沼森めなぜ一体坊主なんぞになったのだ。えいぞっとする 気味の悪いやつだ。」沼森は、人間に木を刈り取られて“坊主頭”になったのか、それとも、見る場所と陽のかげんなのか‥、理由はともかく、「なぜ一体坊主なんぞになったのだ」は“見たまま”の《心象》そのものです。そして、沼森は、憤りをこちらに向けているので、作者には、沼森に同情する余裕などはありません。
童話『かしはばやしの夜』で、敵意のある樹々のあいだに入りこんで行く時の清作の心理に似ていますね。
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