宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ
□第4章 “こころ”と世界
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「心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)」
『春と修羅』「春と修羅」
もうひとり、今度は宮沢賢治プロパーの研究家の“読み”を見ておきたいと思います:
「彼の『心象』とは単なる心理現象ではなく、<宇宙意識を中心とする心の動き>のことです。〔…〕
<彼の心象が諂曲の様相である>ことを述べています。『はがね』は賢治の愛用語で、〔…〕灰色の場合は『灰いろはがねのいかりをいだき』(冬のスケッチ)のように、いらいらした憂鬱な心理の表現としています。雲にからみつこうとするアケビのつるのようなねっとりした官能的傾向も、藪や湿地のようにモヤモヤした感じなども、すべてこの場合の賢治の心象の姿です。」
恩田逸夫「詩篇『春と修羅』の主題と構成」(1971年), in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究U』,1975,学芸書林,p.152.
恩田氏もやはり、「心象」とは、作者の「心の動き」、“こころ”の中のできごとだという《心理主義的な解釈》です。そのために、描かれた風景は、もっぱら作者の心理や気分を表現するものとして平板に理解され、その生き生きした躍動は読みすごされてしまうようです。
また逆に、この壮大な風景全部が収まっている(ことになる!)作者の“こころ”は、「宇宙意識」という巨大なものになるのかもしれません。
「朝から晩までの繁忙な生活の間に彼〔宮沢賢治―――ギトン注〕はいつでも手帳を懐にし、鉛筆を首にぶら下げて歩きまはり、青空の下、物置の隅のきらひなく、心象の湧き起るままに其を言葉にした。言葉にしては歌つた。其処にまつたく新らしい詩の一種族が期せずして生れた。」
高村光太郎「宮澤賢治の詩」(1938年), in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究T』,1975,学芸書林,p.14.
宮沢賢治は「心象の湧き起るままに其を言葉にした。言葉にしては歌つた。」と想像した高村光太郎も、「心象」とは“こころ”の中に湧きおこった詩想ないし言葉だと解しています。
しかし、高村光太郎の想像する即興詩人のような賢治の創作状況は、実際とはいささか違うようです。賢治は詩想を得るために何時間も野山を跋渉しましたし、そこで手帳に書きつけられた断片的なメモは、帰宅後これまた時間をかけて練り直してはじめて、最初の下書稿となったのです。
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