宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第4章 “こころ”と世界
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「 (ではあのひとはもう死にましたか)
  (いゝえ露がおりればなほります
   まあちよつと黄いろな時間だけの仮死ですな
   ううひどい風だ まゐつちまふ)

 まつたくひどいかぜだ
 たほれてしまひさうだ
 沙漠でくされた駝鳥の卵
 たしかに硫化水素ははいつてゐるし
 ほかに無水亜硫酸
 つまりこれはそらからの瓦斯の気流に二つある
 しやうとつして渦になつて硫黄華ができる
     気流に二つあつて硫黄華ができる
         気流に二つあつて硫黄華ができる」

『春と修羅』「真空溶媒」より。


 ↑こちらの場合は、上の例よりも、もっとあからさまに化学反応の知識が登場しています。むしろ、硫化水素 + 無水亜硫酸 → 硫黄 + 水(2H2S + SO2 → 3S + 2H2O)という化学反応の知識が先にあって、「駝鳥の卵」,硫化水素の匂いと毒性といった知識で肉づけされて、できごとが創作され、幻想的な世界が立ち上がっています。

 もっとも、このようなケースは、賢治詩でも稀れです。これほど奔放な幻想の自己展開(周囲世界の展開が幻想を生み出すのではなく、幻想そのものが次々に新しい幻想を生んでゆく)は、「真空溶媒」が唯一の実例かもしれません。

 ちなみに、実際には、常温で2種類の気体を混合しただけでは、この反応は起きないそうです。実験室では、一方の気体を満たした容器中に、もう一方をガラス管で導入して点火します。

 しかし、賢治は、そんなこまかいことはまったく気にしていないようです。要は幻想世界を創ることがいわば目的なのであって、科学知識はその手段にすぎません。正確な科学知識を述べるために書いているわけではないのです。

 『春と修羅』に援用された科学知識の誤りは、ほかにもいくつかあります。たとえば、



 


「わたくしは森やのはらのこひびと
 芦
(よし)のあひだをがさがさ行けば
 つつましく折られたみどりいろの通信は
 いつかぽけつとにはいつてゐるし」

『春と修羅』「一本木野」より。


 などと歌っていますが、このヨシの“ちまき”はフクログモ類の巣で、開いて出て来たのが産卵期の母グモだった場合には、刺されるおそれが大きく、産卵孵化後なら、幼虫が母グモを食い殺している(カバキコマチグモの習性)事態が見られるかもしれません。とんでもない“ラブレター”なのです。

 しかし、作者はそれを知ってか知らずか、そんなことにはいっこう無頓着に見えます。

 科学に対する賢治のこのような“軽さ”は、彼の相対主義的な科学観と関連があるでしょう。



「松がいきなり明るくなつて
 のはらがぱつとひらければ
 かぎりなくかぎりなくかれくさは日に燃え
 電信ばしらはやさしく白い碍子
〔がいし〕をつらね
 ベーリング市までつづくとおもはれる」

『春と修羅』「一本木野」より。


 ↑岩手山東麓の原野“一本木野”、奥羽街道沿いには電信柱の列が走っています。街道沿いの叢林から離れて西へ、“焼走り熔岩流”方面へ向かうと、いちめんの自然草原が広がっています。

 しかし、作者は、原野のなかにひとすじ延びている人工物(街道と送電線)に、驚嘆と親しみの視線を注いでいるのです。私たちは、宮沢賢治が 100年前の作家だということを忘れてはならないと思います。人間の力が自然を圧迫するようになった現代とは異なって、当時は、自然に対しより大きな人工の力を及ぼすことが、人々の課題でした。

 人工物の列は、人間の日常生活を思い起こさせるとともに、開拓の歴史を象徴するものでもあります。「ベーリング市までつづくとおもはれる」には、そのような思いがこめられています。「白い碍子」の「やさし」さは、“人間の友”としての優しさです。

 草原についても同様のことが言えます。日本の気候では、完全に自然のまま放置すれば、裸地は草原になり、→ 疎林(アカマツ等) → 極相林(ブナ,ミズナラ)と遷移して行きます。草原のままの状態は、人間が伐採や“火入れ”を行なって介入しているために、遷移が妨げられて足踏みしているすがたなのです。

 草原は、飼いならされた自然、人間にやさしい自然です。人間の力が加わった準人工だからです。

 縄文時代から、明治、大正のころまで、そのようにして生活してきた日本人、とくに東北の人々は、生来の感覚として、草原が人間の友であることを知っていました。宮沢賢治も、植生の変遷や生態学の知識を習ったのではなく、東北農民の生来の感覚によって、このことを知っていたのだと思います。
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