宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第3章 “もの”と名前
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(iii) ふたたび賢治詩の特質について


【この節のアウトライン】 吉本隆明によって指摘された賢治
詩の諸特質は、いずれも、賢治詩の《方法》
が《現象学》的営為にほかならないことを示
している。



 こうして、賢治詩の第2の特質として吉本氏が指摘していた:


A 思想や感情の即物的な把握。風景や物の思想的・感情的な把握、生々しく原質的な対象把握。形態・色相・光線による実在の把握。


 ということも、やはり《現象学的》営みの結果であることが判明します。



「日は今日は小さな天の銀盤で
 雪がその面を
 どんどん侵してかけてゐる」

『春と修羅』「日輪と太市」より。



 


 ↑ここで「小さな天の銀盤」とは、単なる比喩ではありません。

 身をもって経験する一回限りの感覚《体験》を、その《体験》の生々しさのままに表現しようとすれば、こう言わざるをえないのです。「雲に隠された太陽」という・できあがった概念を指示する言い方では、作者の生々しい《体験》は表現することができません。

 ↑このテキストの中では、「日」という日常的な指示語のほうが、かえって偶然に見えます。“名辞以前”の眼に映った原初的な印象は、それを「日」「太陽」の射影(パースペクティヴ)として見るよりも、「銀盤」の射影として見るほうが、より自然に思えるのです。

 そこで作者は、“空に銀の円盤などがあるはずがない”という常識を脇にのけて、あえて「銀盤」という言葉で、この「現識」を表現しようとするのです。

 ここに、賢治詩の発想の自在さと、特異な表現の源泉があります。宮沢賢治は、日常世界の常識にとらわれることなく、《現出者》(ノエマ。《意識》に見えた射影の‘本体’として想定されるもの。概念化≒言語化された“もの”)を自在に選ぶことができたのです。そうなると、「水銀」「加里」といった物質名も、「藍銅鉱(アズライト)」「無水亜硫酸」といった鉱物学・化学術語も、日常語と差別なく使うことができます。むしろ、科学術語は使い古されていないだけに、新鮮なノエマとして、好んで選択されたと言えます。



「海面は朝の炭酸のためにすつかり銹
〔さ〕びた
 緑青
(ろくせう)のとこもあれば藍銅鉱(アズライト)のとこもある」
『春と修羅』「オホーツク挽歌」


 ここで、朝のオホーツク海岸の印象を表現するために賢治が選んだのは、酸が銅板を侵食する化学反応、銅と酸の反応によって2種類の塩基性炭酸銅が生成するという化学変化過程のノエマであり、“コトバ以前の意識”の状態がとらえた「現識」を、それら《現出者》の《現れ》(射影)として表現したのです。



「六月の
 ブンゼン燈のよはほのほ
 はなれて見やる
 ぶなのひらめき。」

『歌稿B』#516.


 ↑ここでは、逆に、化学実験器具(ブンゼン・バーナー)のほうが、自然物(ブナの葉)を《現出者》として表現されています。これは「ブンゼン燈の歌」という表題のついた連作短歌のひとつであり、『歌稿』のその近くに「フラスコの歌」もあります。

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