宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第3章 “もの”と名前
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「テーブルに真っ赤なリンゴがあるのを目にするとしよう。よほどのことでもないかぎり、そのリンゴがそのとき突如出現したとは思わないだろう。そのリンゴは、そのまえも、そこから目をそらしたあとも、その部屋から出ていこうと、そのままそこにあるはずだ。そのリンゴがそこにあるということは、わたしの一存でどうにかなるわけではない。わたしがそれに気づこうが気づくまいが、そのリンゴは現に存在している
〔…〕

 リンゴだけでなく、その色についてもそうであり、」
リンゴの赤い色、対象の色は、「『その対象と一緒に現に存在するものとして定立される』(フッサール『論理学研究』U/1,S.348)。フッサールのいう定立(Setzung)とは、〔…〕対象であれ、その性質であれ、『現に存在するもの』と思いみなすことである。

 だが、リンゴもその色も〈知覚〉される内容ではあるが、〈体験〉され〈意識〉される内容ではない。」

岡山敬二『傍観者の十字路―――フッサール』,pp.105-106.


 私たちは、「机の上にある赤いリンゴを見た。」と言う。「リンゴの赤い色を見た。」とも言う。リンゴが存在している以上、その色も存在している。

 しかし、「赤いリンゴを見た。」「赤い色を見た、」と言うとき、私たちは、そのリンゴや赤い色を“体験”しているのだろうか?

 「赤いリンゴを見た」というコトバで報告される私たちの体験を、注意深く反省してみると、それほど単純な“体験”ではないことがわかる。

 そもそも、そのリンゴは、つねに「赤く」見えるわけではない。光線のぐあいによって、ぼんやりした色に見えることもあるし、黄色っぽく見えることもある。電気を消してしまえば、真っ黒に見える。リンゴの形にしても、リンゴのまわりをぐるりと一周しなければ、球形の物体であるのかどうかさえわからない。一目見ただけのパースペクティヴでは、丸く切り抜いたリンゴの絵でないかどうかもわからない。

 にもかかわらず、部屋に入って一瞥しただけで、「赤いリンゴがある。」というコトバが浮かび、そう信じるのは、テーブルの上にしばしばリンゴがあるのを見たり、自分で置いたりした過去の経験からする一瞬の判断が、無意識になされているからだろう。

 私たちが、じっさいに“体験”しているのは、光線の加減によるさまざまな色合いや、リンゴの形のさまざまなパースペクティヴを見る“体験”なのだ。それらを総合して、私たちは「赤いリンゴ」という概念的な像を定立する。あるいは、過去に定立したことがあれば、その記憶を引き出して、“体験”を補充してしまう。


 さまざまなパースペクティヴや光線の色合いの感受は、それぞれの人によって、現に《体験》されている。しかし、「赤いリンゴ」は、そうではない。「見た」のが、幻覚や錯覚だったと気づいた時には、「赤いリンゴ」は存在しなかったことになる。しかし、リンゴのパースペクティヴを感受した個々の《体験》は、その影響を受けない。《体験》しなかったことになるわけではない。


「遠くの暗がりに立つ木を〈人影〉と見まちがえたとしよう。〈人影〉は、現実に存在しなかったことになるが、暗がりで感覚した〈色〉や〈形〉や〈音〉についてはそのままである。人影だと思ったはずのおなじ物影やおなじ物音がべつの存在を思わせる気配に変わっただけだ。
〔…〕いまになって、人影ではなく木立のものであったことにふと気がつくのである。

 手を振っているように見えた物影も、その違和感に気がつけば、木の枝が風に揺れているように思われてくるかもしれない。感覚された体験はおなじままでも、違和感(新たな体験)がくわわることで、木立であったと思いなおす
〔…〕その木立の姿だって、まだ見まちがいかもしれない。

 人影であろうと木立であろうと、知覚はいつまでも幻覚や錯覚の可能性にさらされつづける。

 だが、そのとき見た物影、そのとき聞いた物音、そのとき体験した感覚は、いつまでもおなじままなのだ。知覚物は実在するが、その感覚は実在しているわけではない。実在しない、変らぬ事実、それがフッサールのいう体験である。」

岡山敬二『傍観者の十字路―――フッサール』,pp.105-107.



「対象や性質は見まちがったり、じつはそうでなかったりするが、感覚はそのような影響から無縁なのだ。赤い球は、くらがりで〈赤く〉見えただけかもしれないし、〈球〉ではなく〈円盤〉だとわかることもあるだろう。だが、それが〈赤くみえた〉、〈球にみえた〉という感覚はいつまでもおなじままである。」

 「おなじまま」とは
「どうにもやりなおしのできない一回性のことである。〔…〕一回性は、刻々と変化する刹那のなりゆきでありながらも、そのひとつひとつはどれも、とり消しようのない刹那の刻印である。

 それがいつまでもおなじままであるのは、
〔…〕感覚のなりゆきそのものが二度とやりなおせないものであるからだ。感覚は、空間に実在する出来事ではなく、刻々と変化する〈時間的存在〉である。だからこそ、かけがえのない〈個的存在〉でもあるのだ。

 
〔…〕森羅万象のなりたちを一から調べなおすために、感覚の生々しさにまでもどること、それが超越論的還元である。」
岡山敬二『傍観者の十字路―――フッサール』,pp.114-115.


「球の〈赤さ〉は、球そのものの性質が変わらなければ、いつ、どこで、だれが知覚しようと〈おなじ赤色〉として知覚される。
〔…〕

 だが、〈おなじ赤色〉でも、いつ、どこで、だれが知覚するかで、その感覚の生々しさはさまざまである。状況の変化に応じて、その色の映りよう、こちらに映る色の影、つまり『色感覚の射影』(Abschattung)も変わってくるはずだ。

 まったくおなじ物影、まったくおなじ明るさやおなじ角度での映りようというのは、一期一会の機会のことでしかなく、
〔…〕射影とは、まさに、二度とおなじものにめぐり合えない、ヘラクレイトスの川なのだ。

 フッサールは、感覚のこの生々しさを『体験』(Erlebnis)とよび、実在ではなく、「実的」(reel)という言葉で形容する。フッサールのいう体験は、
〔…〕身をもって経験するその身の生々しさのことであり、独特な含みを持つ言葉である。」
岡山敬二『傍観者の十字路―――フッサール』,pp.112-113.






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