宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第3章 “もの”と名前
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フッサールが奉職したフライブルク大学


 ところで、いま私は「自然や“心象”」と言いましたが、これらは《現象学》では同じものです。日常世界に対する実在感を「エポケー」したとき、現実に存在する(と私たちが信じる)自然と、私たちの“こころ”の中にあることがらとのあいだに区別はないのです。


「フッサールにとっては、外界の対象だけでなく、心に浮かぶ対象も〈超越〉(Transzendenz)ないしは超越的対象ということになる。

 外界の対象とは、山川草木といった自然物や、机や椅子などの人工物
〔…〕鳥や虫などの動物や、自分も含めた人間たちもそうであり、この世に実在するいっさいの物事とそれらが織りなす出来事のすべて、森羅万象のことである。

 心に浮かぶ対象とは、実在の出来事の記憶や想像だけでなく、架空の存在を空想したり、数や概念を思考したりするときの対象までを含む、俗に観念とよばれるすべての対象のことである。

 ようするに、意識される対象のすべてが超越であり、
〔…〕外界だけでなく、精神世界もおなじ意味で超越とよばれる。」
岡山敬二『傍観者の十字路―――フッサール』,2008,白水社,p.17.



 フッサールの「超越」という用語には、人間の意識を超えている、人間がどう考えようと、人間の意志とは無関係にやってくる、という含みがあります。

 外界の事物や出来事が人間の意識から独立していることは、私たちには、まったく当たり前のことに思われます。雨が降ってほしいと思っても、ひでりの年にはひでりになります。天候は自然の循環によって起こるのであって、人間の一念で変えられるものではありません。

 しかし、フッサールは、人間の心の中に起こる出来事も、外界の事物や出来事と同様に「超越」だとするのです。“こころ”の外にあろうと中にあろうと、《意識》の対象はすべて「超越」なのです。


「心や観念も、外界という大きな空間の内部で起こる出来事のひとつになり、
〔…〕広い意味では、心の内も外も実在の出来事であり、どちらも超越ということになるだろう。」

「一段高い眺めから見れば、心の外の出来事であれ、心の内の出来事であれ、意識の対象のすべてが超越的対象(広い意味での超越)になる。」

岡山敬二『傍観者の十字路―――フッサール』,pp.18,20.


 私たちは、天気や社会のできごとは思いどおりにならないとしても、自分ひとりの思念は自分の思いどおりになると考えがちです。しかし、それは程度の差にすぎないのではないか?

 自分の身体が、かならずしも思いどおりにならないことを、私たちは病気になった時に思い知らされます。“こころ”もやはり身体の一部です。“こころ”に浮かぶ思念、数字や図形などの概念、色・形・匂いなどの感覚、それらを総合した架空の想像世界や幻想世界も、じつは私たちの意識から独立したものであるのかもしれません。

 “外界は思いどおりにならないが、こころの中は思いどおりになる”という私たちの思いこみは、じつは、人間にとって当然の認識というよりも、科学と心理学によって毒された近代人の誤謬であるのかもしれません。私たちは、“こころ”を容れ物のように考えて、“こころ”の“うち”と“そと”を区別する思考に慣れすぎてしまっています。「外界」という言葉がそもそも、“こころ”の内と外を区別する観念によるものです。

 これに対して、フッサールは、“心理主義”の予断を克服するために《意識》を純粋化してとらえようとします。“こころ”の中で浮かぶこと、思うこと、私たちの“こころ”の中の対象‥‥それらすべては《意識》そのものではないのであって、《意識》にとっては“外部”であり“超越”であるとして削ぎ落していき、ぎりぎりの《意識》の核をとりだそうとするのです。

 このようにして純粋化された見地から眺めると、心理学が私たちにどんな予断を与えているのかも見えてきます。

 心理学は、“こころ”の中を客観的に観察し、解剖し、科学的に理論化することができるということを、暗黙のうちに前提しています。しかし、心理学がそこで言う“こころの中”とは、私たちの《意識》そのものをも含んでしまっているかのようです。私たちは、心理学的な俗説に惑わされて、精神科医や心理カウンセラーが、私たちの《意識》そのものを、客観的に科学的に“見る”ことができると思ってしまいがちです。

 ぐずぐず言うな。おまえが、ああいうことを考えたり、こういうことをしたりするのは、心理学によれば、これこれの作用の結果なのだ。おまえが何を言おうと、科学のほうが正しいのだ。―――こうして、すべての人生は切り捨てられ、片づけられてしまいます。

 しかし、《意識》は、見られるものではなく、見るものです。“こころ”を科学的に外から解明すれば、それによって人間をすべて知ったことになる―――と心理学が考えているのだとしたら、心理学は人間を機械と同一視していることになります。

 心理学のような客観的な方法では《意識》は―――純粋な《意識》の核は、解明できない。そこで、フッサールは、《意識》(純粋意識,超越論的意識)と「超越」(外界および“こころの中”に現象する諸事物)とのあいだに境界線を引くのです。



 宮沢賢治の詩と童話が、


@ 空間・時間の自在性、異質な空間・時間と日常空間との隣りあわせ。

 を可能とし、

B 確固とした実在感をともなう幻想世界


 を描くことができたのも、“こころ”の中のできごとと、“こころ”の外のできごととを区別せず、意識の対象として無差別同等なものとしてとらえ、どちらにも同等の実在性を感じとる《現象学的》思考によるものだったと言えるのではないでしょうか。
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