宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第3章 “もの”と名前
5ページ/11ページ

.

 

 (ii) フッサール


【この節のアウトライン】 フッサール現象学の説明。とくに、
難解とされる《現象学的還元》について
岡山敬二による平易な説明を参照する。



 宮沢賢治の同時代に、ヨーロッパで思想界の注目を集めていた《現象学》は、いっさいの理論や先入見を棄てて、私たちの目の前にある《現象》そのものを注意深く解析していこうとする思想運動でした。

 デカルト、ライプニッツにはじまる近代合理主義哲学と、その上に構築された近代科学技術が、人間の生活を無限に豊かにしてゆくように見えながら、その一方で、高度に発達した産業システムは巨大な貧困を生み出し、科学が高度化させた兵器は人類を滅亡の危機に追いやるかに見えました。《現象学》が起こった背景には、そのような西欧近代の諸科学に対する反省と危機の意識があったのです。

 《現象学》の提唱者であるエドムント・フッサール自身、ユダヤ人であったためにナチス党の政権掌握によって迫害を受け、彼の遺した膨大な未公刊著述とメモ類は、ナチスによる焚書を避けるため、ひそかにベルギーの修道院へ運び出された経緯があります。

 フッサールは、1923年から 24年にかけて、日本の雑誌『改造』に3篇の論文を寄稿しました。
(フッサールは5篇の論文を用意していたのですが、出版社側の事情で連載が打ち切られています)

 1923-24年といえば、宮沢賢治が『春と修羅』出版に向けて作品の整理・編集を行なっていた時です。賢治は、『改造』を読んでいたと言いますから、フッサールの論文から「序詩」(1924年1月20日付)のヒントを得たことも考えられなくはないのですが‥、残念ながら、フッサールの掲載論文は倫理学に関するもので、《現象学》の中心的な論題がかんたんに読みとれるようなものではありませんでしたから、この想定はちょっと無理かもしれませんw

 
 当時、哲学と言えば、…日常の世界から懸け離れた思弁を重ねるヘーゲルなどの観念論哲学が主流でした(プラグマティズムや分析哲学が盛んな現代とはまったく様相が違っていたのです)。フッサールの《現象学》は、そうした既成の観念論哲学に対するアンチ・テーゼとして提起された思想運動だったのです。

 私たちが日常目にする“もの”や“ひと”や“できごと”から出発すること、それが、この思想運動のモチーフだったと言えるでしょう。





「レーモン・アロンはその年をベルリンのフランス学院で送り、歴史の論文を準備しながらフッサールを研究していた。アロンがパリに来た時、サルトルにその話をした。私たちは彼とモンパルナス街のベック・ド・ギャーズで一夕を過ごした。その店のスペシャルティーである杏のカクテルを注文した。アロンは自分のコップを指して、

 《ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!》

 サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。それは彼が長いあいだ望んでいたこととぴったりしていた。つまり事物について語ること、彼が触れるままの事物を……そしてそれが哲学であることを彼は望んでいたのである。

 アロンは、現象学はサルトルが終始考えている問題に正確に答えるものだといってサルトルを説き伏せた。つまりそれは彼の観念論とレアリスムとの対立を超越すること、それから、意識の絶対性とわれわれに示されるままの世界の現存とを両方同時に肯定するという彼の関心をみたすのだとアロンは説得したのであった。」

シモーヌ・ド・ボーヴォワール,朝吹登水子・訳『女ざかり 上』,1965,紀伊國屋書店.


 フッサール自身についても、こんな話が、晩年のエピソードとして弟子のヘルムート・プレスナーによって伝えられています:

「フッサール家の庭の戸口まで来たとき、彼の深い不快感が爆発した。『ドイツ観念論のすべてが私にはいつも糞食らえという感じだった。私は生涯にわたって』──こう言いながら彼は、銀の柄のついた細いステッキを震わせてから、そのステッキを戸口の柱に押し当てて前屈みになった──『現実性を求めてきた』

 
〔…〕フッサールがここで言う『現実』とは、簡単に言えば、私たちが見たり触れたりしている当のもの──ステッキで指し示されるようなもの──であり、もう少し正確に言えば、(あらゆる学説に先立って)直接に経験している当のものである。」
谷徹『これが現象学だ』,2002,講談社現代新書,p.13.

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ