宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第3章 “もの”と名前
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 中也が使用する「名辞」という用語の意味についても、「現識」と同様に分厚い研究史があるようでして
(『新編 中原中也全集』,第4巻・改題篇,pp.135-138)、厳密を重んじる読者の方には、上述の全集・改題篇などを見ていただくほかはないのですが、‥おおざっぱに言えば、論理学で言う「名辞」とほぼ同じ意味に解してよいようです。つまり、

 「岩手山は三角形の山である。」

 という《命題》のなかにある「岩手山」「三角形」「山」が《名辞》です。すなわち、“名詞”とほぼイコールです。「概念」をコトバで表現したもの、と言ってもよい。

 なまの「印象」「現識」を、そのような名辞によってかたどってしまうよりも、もっと以前にあった意識の状態が、すなわち「名辞以前」なのです。

 「名辞」以前の意識に映った「印象」を、頭に浮かぶ月並みな概念によって、それは「岩手山」であるとか、「三角形」である、「山」であると思うのは、固定観念です。中也は、「宮澤賢治の世界」で、


「芸術を衰微させるものは、固定観念である。」


 とも書いています。つまり、中也がここで述べているのは、「手」という言葉によって固定したイメージや連関を与えられる以前に感じられていた手、まだ言葉を知らない幼児が感じるような手を、なんとかして表現したい、その表現方法を編み出すことが、宮沢賢治の努力した詩作・創作活動の心髄であったということなのです。


「そらの散乱反射のなかに
 古ぼけて黒くえぐるもの
 ひかりの微塵系列の底に
 きたなくしろく澱むもの」

『春と修羅』「岩手山」


 ↑これは、じっさいに宮沢賢治が自らのコトバで表現した岩手山、賢治の“詩のコトバ”に翻訳した岩手山の「現識」です。そこには、「岩手山」のような固有名詞はもちろん、「三角形」のようなアプリオリな概念も、「山」のような現実的な名辞も、使用されていません。それらの固定観念と、固定観念が引きずってくる常識的な連関を排除したところに、賢治詩の世界が開かれています。

 ここに表現されているのは、一回限りの《体験》の生々しい現実感を伴なった岩手山の姿なのです。



「一、生命の豊かさそのものとは、必竟小児が手と知らずして己が手をみて興ずるが如きものであり、つまり物が物それだけで面白いから面白い状態に見られる所のもので、芸術とは、面白いから面白い境のことで、かくて一般生活の上で人々が触れぬ世界のことで、謂はば実質内部の興趣の発展によつて生ずるものであり、
〔…〕

「名辞以前、つまりこれから名辞を造り出さねばならぬことは、既に在る名辞によつて生きることよりは、少くも二倍の苦しみを要するのである。」

「 一、芸術は、認識ではない。認識とは、元来、現識過剰に堪えられなくなつて発生したとも考へられるもので、その認識を整理するのが、学問である。
〔…〕
中原中也「芸術論覚え書」(遺稿), in:『新編 中原中也全集』,第4巻・本文篇,pp.139-153. より。






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