宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ
□第3章 “もの”と名前
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「人性の中には、かの概念が、殆んど全く容喙出来ない世界があつて、宮澤賢治の一生は、その世界への間断なき恋慕であつたと云ふことが出来る。
〔…〕仮りに、さういふ世界に恋著した宮澤賢治が、もし芸術論を書いたとしたら、述べたでもあらう所の事を、かにかくにノート風に、左に書付けてみたいと思ふ。
一、『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が感じてゐられゝばよい。
一、名辞が早く脳裡に浮ぶといふことは、尠くも芸術家にとつては不幸だ。名辞が早く浮ぶといふことは、『かせがねばならぬ』といふ、二次的意識に属する。
〔…〕
一、芸術を衰微させるものは、固定観念である。誰もが芸術家にならなかつたといふわけは、云つてみれば誰もが固定観念を余りに抱いたといふことである。〔…〕」
中原中也「宮澤賢治の世界」(遺稿), in:『新編 中原中也全集』,第4巻・本文篇,pp.154-155.
これは、中也が宮沢賢治論の草稿として書いたものの、生前には発表しなかった遺稿ですが、「 一、『これが手だ』と、」以下は、別の遺稿「芸術論覚え書」の一部になっています。
宮沢賢治論として書いた芸術論(作詩法)を発展させて「芸術論覚え書」となったのか、先に書いた「芸術論覚え書」の一部を使って宮沢賢治論を書いたのか、遺稿の執筆時期の先後が不明なので、決定することはできません。しかし、「 一、」以下の箇条書き部分を、中也が、宮沢賢治から学んだ詩(芸術)の《方法》だと考えていたことは、まちがえないでしょう。
「人性」とは、人間の性質、というほどの意味でしょう。つまり、人間の意識には、散文的なコトバの「概念が、殆んど全く容喙出来ない世界」があって、宮沢賢治の詩作・創作活動は、その領域に定位していたと言うのです。
すなわち、そうした“「概念」以前の領域”に定位して、ナマの「印象」「現識」をとらえることに、賢治の《方法》の第一歩があるのです。
“「概念」以前の領域”は、「名辞以前の世界」とも呼ばれています:
「芸術といふのは名辞以前の世界の作業で、生活とは諸名辞間の交渉である。」
中原中也「芸術論覚え書」(遺稿), in:『新編 中原中也全集』,第4巻・本文篇,pp.139-153. より。
「一、『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手」の部分は、「芸術論覚え書」の下書稿では、↓つぎのようになっています:
「一、『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が五感に深く感じられてゐればよい。」
「芸術論覚え書」【推敲過程】, in:『新編 中原中也全集』,第4巻・改題篇,p.143.
つまり、ここで問題になっているのは、「五感」でとらえられたままの「印象」なのであり、まさしく、コトバとなる以前の領域なのです。
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