宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第3章 “もの”と名前
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「彼
〔宮沢賢治―――ギトン注〕は幸福に書き付けました。とにかく印象の生滅するまゝに、自分の命が経験したことのその何の部分をだつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮かぶまゝを、―――つまり書いてゐる時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。

 彼は想起される印象を、刻々新しい概念に、翻訳しつつあつたのです。彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考されるべきものでも、翫味されるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のまゝで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白出来さへすればよかつたのです。」

中原中也「宮澤賢治の詩」(1935年), in:『新編 中原中也全集』,第4巻,本文篇,p.64.


 「印象の生滅するまゝに」は、宮沢賢治の『春と修羅』「序詩」に、


 「わたくしといふ現象は
      
〔…〕

  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です」


 とあるように、1秒間に 50 ないし 60 サイクルで明滅する交流電源に喩えて述べられた意識のありかた、「せはしくせはしく明滅」する意識が映す世界の印象を指していると考えます。

 「それが頭に浮かぶまゝを」、すなわち、「なるべく生の印象、新鮮な現識を」とらえて、できるだけ“そのまま”の状態で「書き付け」ようとした。それが、宮沢賢治の詩作活動であったと中原中也は言うのです。


 


 ここで中也が使っている「現識」という語については、中也研究者の間でもさまざまな説があり、精緻な研究が行われているようです。中也の場合には、賢治とちがって、読んだ本の題名と感想を記した読書日記を遺しており、生前、中央の文学者との交友も深かったので、こうした方面を研究する材料が多いのだと思います。『新編 中原中也全集』各巻の「改題篇」が、学説状況を概観するのに便利です。

 しかし、ここで、中也研究の成果に分け入ってゆく余裕はとてもないので、「現識」とは、上のテキストから、「印象」に近いものと考えておいてよいと思います。つまり、思想、理論、判断が加えられる以前の意識の状態、その状態で感受したままの印象、中也のほかの用語で言えば、「名辞以前」の世界
(このあとで↓説明します)での認識のことです(『新編 中原中也全集』,第4巻・改題篇,pp.138-141:「芸術論覚え書」)。“コトバになる以前の、まだ半ば無意識の状態での認識”と言ってもよいと思います。

 しかし、この「現識」をそのまま、なんらの判断も、理論による加工も加えずに表現するのは、容易なことではありません。なぜなら、“表現”は、コトバによって行わなければならないからです。

 ここに、跳び越えなければならない大キレット―――深淵があります。

 中也自身は、散文によってこの“深淵”を跳び越えるのは、ほとんど不可能で、リズムを伴う詩や「うた」によってはじめて、「現識」は表現できると考えていたようです:

「子供の時に、深く感じてゐたもの、―――それを現はさうとして、あまりに散文的になるのを悲しむでゐた …… 元来、言葉は説明するためのものなのを、それをそのまゝうたふに用うるといふことは、非常な困難であつて」
(中原中也「河上に呈する詩論」in:『新編 中原中也全集』,第4巻・本文篇,pp.120-121.)

 頭脳に浮かんだ印象を、できるだけそのままの状態で表現するには、「概念を出来るだけ遠ざけ」「想起される印象を、刻々新しい概念に、翻訳」しなければならない。

 ここで、中也が、「印象を、刻々新しい概念に、翻訳」すると言っていることが重要だと思います。「概念」とは、コトバで表現されるものですから、コトバとほぼイコールだと考えてよいと思います。つまり、「印象」(「現識」)を、私たちのふつうの散文的な日本語にしてしまうと、どうしてもそこに、私たちの判断や常識が介入してしまう。そこで、それを避けるために、まったく新しい言語に、「新しい概念」に、「翻訳」して表現すると言うのです。それが、宮沢賢治の《方法》であったと、中也は述べているのです。

 私が思うに、“大キレット”を跳び越えるために中也が実践した方法は、コトバのリズムによって、コトバの概念形成力を“眠らせる”ことであったと思います。コトバを「うた」として使うことは、ある意味で“バカになる”ことですが、あまり“バカ”になりすぎると、日常的な感性にまみれた常識的概念の淵に沈んでしまうことになります。そこが難しいのですが、西洋の象徴詩の流れを汲んだ《新感覚派》の人たちが取り組んだのは、日本語話者の通常のコトバの生成、散文的な言葉の発生を停止して、なおかつ、センチメンタルな流行り歌の情趣にも堕さない道すじを見いだし、それを拡大することだったと思うのです。

 しかし、宮沢賢治の《方法》は、「うた」にすることだけではなかった。むしろその中心は、これまでの日本語としてはありえなかった、伝統的な詩歌のコトバとしても存在しなかった、異常な言葉の使い方を編み出して、コトバ以前の段階でとらまえた「印象」「現識」を、その「新しい」言語に「翻訳」して表現することであった―――中也は、そう言っているのだと思います。

 それが、「現識を、出来るだけ直接に表白」することにほかならないのです。

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