宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第3章 “もの”と名前
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 宮沢賢治が、生前ことあるごとに、「事実のとほりに記録した」「そのとほり書いた」と表明していたのは、フッサールの言う“生々しい感覚体験”のことにほかならなかったのだと思います。

 したがって、人間の《体験》である以上、それは―――「ある程度まではみんなに共通いたします」(序詩)―――万人に共通するのであり、注意深い読者には必ず理解されると、宮沢賢治は確信していたのです。


「実在は、経験〈される〉出来事、出来あがってしまった静的な事実であり、経験〈する〉活動、生き生きと躍動する動的な事実ではない。活動を終え、いわば死体のように浮かびあがった出来事の水面下で、生々しく流動する刹那の息吹、これがフッサールのいう非実在、実体な体験である。」

岡山敬二『傍観者の十字路―――フッサール』,p.118.


「赤い球を知覚するとき、対象の赤い球は実在しているが、体験される感覚の生々しさは
〔ギトン注―――意識の外に〕実在しているわけではない。事実とは、対象〔赤い球―――ギトン注〕の知覚(実在)と感覚〔偶然の見え、射影―――ギトン注〕の体験(非実在)の全体であり、感覚の生々しさを体験しながら、対象をまざまざと知覚することである。〔…〕感覚や体験の生々しさは刹那のはかなさであり、文字どおり、つかみどころのない影である。〔…〕実在は表層で、その深層が非実在だといったほうがいいだろう。

 事実とは、この重層構造の全体で、このまるごとの事実が現象学のいう現象、純粋な現象ということになる。」

岡山敬二『傍観者の十字路―――フッサール』,p.117.


 実在の対象を述べる際にも、“名づけ”の現場へ遡行し、あえて自由な対象(ノエマ)を呼び出して、詩的“名づけ”を行なう賢治詩の方法。これによってはじめて、「水面下」の「生き生きと躍動する動的な」《体験》をも、切り捨てることなく包摂する“重層的・全体的な「まるごとの事実」”、すなわち《現象》の全体像が、表現されることとなるのです。



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