宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第3章 “もの”と名前
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宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ

―――「心象スケッチ」論序説


 3 “もの”と名前――― (i) 中原中也


【この節のアウトライン】 中原中也によってなされた、賢治
詩の《方法》の先駆的解明を参照する。



 




「けれども、一郎が眼をさましたときは、もうすつかり明るくなつてゐました。おもてにでてみると、まはりの山は、みんなたつたいまできたばかりのやうにうるうるもりあがつて、まつ青なそらのしたにならんでゐました。」

宮沢賢治『注文の多い料理店』「どんぐりと山猫」 より。



「唯一の童話集の冒頭を読めば、賢治も現象学的精神――『世界をまえにしての〈驚異〉』――を共有していたことがわかるであろう。

 
〔…〕詩人の永瀬清子は、賢治は『はじめて見たやうに自然を見てゐる』と表現したが、たしかに純粋で囚われのない眼差しでものごとを見て、そしてそれをそのままスケッチしていったのである。これは、メルロ=ポンティの『生れ出づる状態』、すなわち意味の発生する現場で捉えようとする現象学的眼差しを先取りした証言である。」
田中末男『宮澤賢治〈心象〉の現象学』,2003,洋々社,p.325.

「宮澤賢治の『春と修羅』を読みかへした。何時どこにあつてもみちあふれたものは美しい。詩とは必竟濃い空気の謂である。彼は日本の日常自然の風景から、むしろ通常人には幻想的にさへ思はれる程の濃い空気を呼吸した。
〔…〕

 しかし幻想的と言ふのは彼があまりに自然に対して古代人的な神話作者的な驚きの氾濫を感じてゐるからで、
〔…〕云はゞ感覚的に極度に新鮮であり振幅が大であるからだ。彼ははじめて見たやうに自然を見てゐるのだ。」
永瀬清子「ノート」(1933年8月), in:続橋達雄・編『宮澤賢治研究資料集成』,第1巻,1990,日本図書センター,p.39.


 上に引用した「どんぐりと山猫」の、一郎が朝起きて外を見ると、近くの山々が、まるで今朝はじめて生れ出たとでも言うように、「うるうるもりあがつて」並んでいた―――という部分は、賢治の創作方法の“秘密”を開示するものとして、さまざまな論者によって引用されています。

 永瀬清子氏が述べるように、この「はじめて見たやうに自然を見」るという賢治の《方法》は、童話のみならず、詩集『春と修羅』においてこそ全面的に展開されているものです。

 ちなみに、永瀬氏が上の文を発表したのは宮沢賢治の生前であり、氏は、宮沢賢治の《方法》を、最も早く理解し公にしたと言うことができます。


 しかし、宮沢賢治の“早すぎる死”には間に合いませんでしたが、詩人中原中也もまた、賢治の死の直後に、賢治詩の《方法》について、より明解な詩論を明らかにしています。

 永瀬氏が、「通常人には幻想的にさへ思はれる程の濃い空気」「はじめて見たやうに自然を見てゐる」という感覚的な言い方で述べたことがらを、中也は、より分析的に、詩を創り出す者の側からとらえて解明しています。

 ここで私たちは、中原中也が遺した貴重な“同時代人の宮沢賢治論”を紐解いてみたいと思います。


 宮沢賢治の死後、彼の全集がはじめて出版された時、中原中也は、つぎのように書いています:


「宮澤賢治全集第1回配本が出た。
〔…〕

 私にはこれら彼の作品が、大正13年頃、つまり『春と修羅』が出た頃に認められなかつたといふことは、むしろ不思議である。私がこの本を初めて知つたのは大正14年の暮であったか、その翌年の初めであったか、とまれ寒い頃であった。由来この書は私の愛読書となつた。何冊か買つて、友人の所へ持つて行つたのであつた。

 彼が認められること余りに遅かったのは、広告不充分のためであらうか。彼が東京に住んでいなかつたためであらうか。
〔…〕私自身が無名でさへなかつたならば、何とかしたでもあつたらうけれど、私が話をした知名の人たちは、どう迂つ闊りとしてゐたものか。」
中原中也「宮澤賢治全集」(1934年), in:『新編 中原中也全集』,第4巻,本文篇,2003,角川書店,p.61-62.


 じっさい、中也は、1925年頃、『春と修羅』を古書店で買い集めて、友人たちに配って歩きました。ふだんケチで土産など持参したことのない中也だったので、友人たちは驚いたと言います。

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