宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第2章 賢治詩の特異性をめぐって
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(iii) 賢治詩の「体系的な構想」


【この節のアウトライン】 賢治詩は、体系的な《方法》に基
いて生みだされたのであり、その《方法》と
は、仏教でも相対論物理学でもない。



「彼
〔宮沢賢治―――ギトン注〕の生涯の詩作品には明らかに体系的な構想があって、〔…〕

 宮沢詩学と言ふにふさはしい確固たる体系が感ぜられるのです」

吉本隆明「宮沢詩学の解析について」(執筆 1945年9月24日), in:『吉本隆明全著作集』,第15巻,p.379.



 「体系的な構想」「宮沢詩学といふにふさわしい確固たる体系」と吉本氏が指摘するように、たしかに、宮沢賢治の短歌と詩には、なにか特異な物質観、自然観、ないし世界観が、その背景にあるかのように感じられます。

 しかし、賢治自身は、それを論理的なかたちでは書き残していないのです。わずかに、『春と修羅』序詩には、独自の世界観の表明が見られますが、論者によるその解釈はさまざまで、‥人により、仏教の教義で説明したり、相対論物理学で理解したり、‥しかしそのいずれによっても説明困難な部分が残ってしまうのです。

 たしかに、「序詩」の思想に、仏教哲学、あるいは相対性理論の影響が見られるのは事実です。しかし、そのいずれの枠におさまるものでもないこともまた、事実なのです:


「これらについて人や銀河や修羅や海胆は
 宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
 それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
 それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとほりのこのけしきで
 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
 ある程度まではみんなに共通いたします」

『春と修羅』「序詩」より。


   
ムラサキウニ、串本海域公園   



 「これら」とは、この詩集『春と修羅』に収録された「心象スケッチ」作品群のことです。

 「記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで」―――つまり、収録された作品群には、あくまでも作者が“見たまま”の「けしき」が書かれているのであって、読者は、あるいはそれを素直にそのまま受けとらずに、そこから「新鮮な本体論」を考え出したりするかもしれないが、それも「こゝろのひとつの風物」にすぎない。

 つまり、ここで作者は、眼で“見たまま”の現象の記述こそが、彼の詩作の実質であり、最終的な目標であると表明しているのです。「本体論」―――諸現象をもとに人々が考える理論や“真理”は、人ごとに異なる勝手な思いなしにすぎないのであって、結局は「こゝろの…風物」でしかないと言うのです。

 大乗仏教の考え方では、私たちの目に見えるこの世の現象などは“虚妄”にすぎない、真に実在するのは仏の世界だ―――ということになります。しかし、宮沢賢治がここで表明している思想は、それとまったく逆だということに注意してほしいと思います。

 そして、さらに賢治は言います。もし仏教の教えに基いて、眼に見えるこの世界は「虚無」だと言うなら、「虚無自身がこのとほり」のものなのだ。眼に見える地上と作者の心の中にある世界を「虚無」と名づけるのは勝手だが、「虚無」と呼ばれてもそれは確固として実在するし、「ある程度まではみんなに共通いたします」―――誰が認識しても、それほど違わない現実世界と幻想世界になるのだ。

 つまり、ここで宮沢賢治は、科学的な世界観も、宗教的な
(仏だけが実在するという)「実在」観念も相対化して、それらはみな、世界をさまざまに解釈するおのおの勝手な“理論”であって、どの“理論”も世界そのものを述べているわけではないのだと言っているのです。むしろ、私たちは、それらの“色眼鏡”を取り外し、それらの理論の枠組みから私たちの伸びやかな感性と想像力を解放して、私たちが直かに接している・この世界そのもの、これらの《現象》そのものにこそ、とり組むべきではないかと言うのです。



 「人や銀河や修羅や海胆」とは、なんと人を食った言い方でしょうか。世の思想家も宗教家も心理学者も、「空気や塩水を呼吸しながら」理論を考え出すウニにされてしまうのですから!

 ナマの《現象》に対して、いかにすばらしい理論を考え出して解釈しようと、その解釈自体が、「畢竟こゝろのひとつの風物」──理論家自身のその場限りの心理現象に過ぎないというのです!

 “理論”に対する宮沢賢治の相対的な態度は、自らの“芸術論”に対してさえ向けられました。「岩手国民高等学校」での2ヶ月にわたる「農民芸術」講義の最後は、次のように締めくくられたのでした:


「理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる

 畢竟ここには宮澤賢治一九二六年のその考があるのみである」
(「農民芸術概論綱要」)



 吉本隆明氏は、宮沢賢治の詩作をつらぬく「体系的な構想」の存在を指摘したあとで、‥氏自身はもっぱら、「宮澤詩学」すなわち、主に形式的・手法的側面から賢治作品にアプローチしてゆくことになります。

 しかし、この『序説』では、以下、メルロ=ポンティやフッサールによって解明された《現象学》を導きの糸として、一気に、賢治詩の特異な世界観、自然観の核心に切りこんでみたいと思います。




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