宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第2章 賢治詩の特異性をめぐって
4ページ/6ページ

.


 (ii) セザンヌとメルロ=ポンティ



【この節のアウトライン】 賢治詩を解明する“導きの糸”と
して、『現象学』の方法を援用することの有
効性を明らかにする。




「彼
〔宮沢賢治―――ギトン注〕の自然科学的な修練は常に対象を形態と色相と光線との3つの面から感覚しやうとしてゐます この意味で実験化学者としての彼の対象の促へ方は詩の上に抜く可からざる影響を与へました」
吉本隆明「宮沢詩学の解析について」(執筆 1945年9月24日), in:『吉本隆明全著作集』,第15巻,p.391.


 ↑吉本氏のこうした指摘から、私たちは、印象派やセザンヌの絵画を連想してもよいのではないでしょうか?



 
      セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」


 眼に映る景物を、コトバや概念や常識によって反省するよりも、むしろ逆方向へ向かい、対象を「形態と色相と光線」に分解し、できあがった“もの”の概念を超えてその始原の領域へ、コトバと概念の発生現場へと遡ってゆく営みは、セザンヌとともに、当時芸術と哲学の世界を流れていたある根源的な思想傾向を指しているように思われます。

 それは、結論を先取りして言ってしまえば、エドムント・フッサール(1859-1938)の《現象学》と、フッサールによって喚起された一群の現象学的原初思考なのです。



「それと同時に彼の作品の異常さを支へてゐるものは、彼が自身の幻想の世界を抱き、しかもその世界があたかも可能の世界でもあるかのやうに、鮮やかな実在性を伴ってゐる点であります 
〔…〕幻想第四次の世界と呼んでゐる、その第四次といふ意味は、実に彼の幻想が現実の世界と同時の実在性を以て展開せられ、そこでは生きた活動が行はれてゐるといふ点にかかつてゐます 即ち第四次元の世界とは、確実な実在性と、生々流転の動相を持つた幻想の世界といふ事になります〔…〕

 彼の幻想が明らかに実在性を伴つてゐたことが彼の作品に異常性を与へる一つの原因となってゐる」

吉本隆明「異常感覚感の由来について」, in:『初期ノート』(⇒:電子書籍


 この“幻想世界の確固たる実在性”という指摘は、フッサールの《現象学的還元》を想起させます。フッサールは、現実世界に対する私たちの“実在感”を「エポケー」(とりあえず消しておく)することによって、できあがった自明の概念で埋め尽くされた日常世界に妨げられることなく、私たちの意識の深奥に向かって分析を進めてゆくことが可能になると考えました。

 こうして「エポケー」された世界においては、現実世界は、幻想世界と同じように実在感のない世界であり、逆に言えば、あらゆる幻想世界が、現実世界と同等の実在感を獲得するとも言えます。

 もちろん、宮沢賢治が、フッサールの哲学学説を研究したとか、フッサールの学説に基づいて詩を書いた、などということは考えられません。

 しかし、フッサール以前のバルザック、プルーストといった作家、詩人ヴァレリー、画家セザンヌらが、《現象学》と同じ方向に不断の努力を注いだと言われる(メルロ=ポンティ)のと同じ意味で、宮沢賢治もまた、《現象学》の巨きな流れの中で努力を重ねていたと言うことができます。

〔…〕それというのも、現象学は世界の神秘と理性の神秘とを開示することを任務としているからである。現象学が一つの学説ないしは一つの体系であるよりもまえに一つの運動であったとしても、それは何も偶然でもなければ詐欺でもない。

 現象学はバルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品とおなじように、不断の辛苦である―――
〔…〕世界や歴史の意味をその生れ出づる状態において捉えようとするおなじ意志によって。こうした関係のもとで、現象学は現代思想の努力と合流するのである」
メルロ=ポンティ,竹内芳郎・訳「『知覚の現象学』序文」(原:1945年), in:木田元・編『人間の科学と現象学』,メルロ=ポンティ・コレクション 1,2001,みすず書房,pp.33-34.


「だれしも宮澤賢治を読むとき、そこに『世界や歴史の意味をその生れ出づる状態において捉えよう』とする精神の働きを感得できよう。メルロ=ポンティのように現象学を広義に理解して、根源を志向する者ならすべて共有している開かれた精神的態度と捉えるならば、宮沢賢治もバルザックやプルースト、ヴァレリーそれにセザンヌらと同じように、事象と格闘する最前線にあって戦った一人といえるのではないだろうか。
〔…〕

 宮澤賢治は現象学的用語も手続きもなんら知ることはなかったが、いわば天性の『現象学的観方(Phänomenologisches Sehen)』(ハイデッガー)を体得していたということができる。」

田中末男『宮澤賢治〈心象〉の現象学』,2003,洋々社,p.320.

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ