宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第2章 賢治詩の特異性をめぐって
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  あまぐもは
  氷河のごとく地を掻けば
  森は無念の 群青を呑み。

『歌稿B』#645. [1918年4月]



「そういうふうに術語を使うことで切り取られる世界の切り抜きが、特異な形象をつくるということが起こっています。
     
〔…〕

 宮沢賢治のばあいそういう概念を使ったがために、そういう言葉を使ったがためにでてくる特異な対象のつかまえ方、切り抜き方があるのです。

 『氷河のごとく地を掻けば』という言い廻しです。「あまぐも」というのは、
〔…〕それが地面に垂れ込めて接しているというばあい、たいていの詩の表現では、『地を掻けば』というふうには使わないわけです。『地を掻けば』という、あまぐもを、堅いものとしてみる見方は、〔…〕ぼんやりしたふわふわした雲というふうに受けとらないで、堅いものだというふうに受けとられる。そうしますと、硬質のひとつの世界というものがでてきます。つまり、術語を使うことによって特異な世界ができる〔…〕

 『森は無念の群青を呑み』というように、あたかも森が人間であり、あまぐもが垂れ込めてきて、いわば自分自身が縮こまってしまったというようにとらえています。そうしますと、普通の表現とちがって、あまぐもが地を掻いているという表現をしたために、特異な切り抜き方につながっています。

 これが、宮沢賢治の童話とか詩の中に、しばしばでてくる表現の仕方の特異性です。これは宮沢賢治の世界を構成している単位として、大きな特徴をなしています。」

吉本隆明「宮沢賢治の世界」(1976年講演), in:ders.『宮沢賢治の世界』,2012,筑摩書房,pp.31-33.








「対象の把握の仕方が生々しく原質的であるにもかかはらず表現方法に至つては実に主体的意識的である
〔…〕

 彼の詩が時に幼稚な程の生々しい不完全さを感じさせる事もまた同時に優れた表現技法を感じさせることもすべてこの点にかかつてゐます」

吉本隆明「宮沢詩学の解析について」(執筆 1945年9月24日), in:『吉本隆明全著作集』,第15巻,p.390.



 「対象の把握の仕方が生々しく原質的である」にもかかわらず、同時に「実に主体的意識的」な表現方法が見られる、というのは、たとえば、↓つぎのような例があります:


「日は今日は小さな天の銀盤で
 雪がその面を
 どんどん侵してかけてゐる」

『春と修羅』「日輪と太市」より。



 これはまさに、空を“見たまま”の映像で、光っているのが「日」だということ、その前を飛ぶのは「雪」だということ以外は、対象の反省的な把握というものが見られません。いわば、「幼稚な程の生々しい」対象把握であり、叙景であると言えます。

 にもかかわらず、ここに見られる表現は、「天の銀盤」と言い、「その面を/どんどん侵して」と言い、科学者の観測報告にも近い意識的な語彙・表現でなされているのです。


「小田中はのびあがり
 あらんかぎり手をのばし
 灰いろのゴムのまり、光の標本を
 受けかねてぽろつとおとす」

『春と修羅』「芝生」より。



 これもまったく“見たまま”の映像です。「小田中」がどういう生徒で、誰が投げたゴムまりで、‥といった反省が加わる前段階の“見たまま”―――いわば「原質的」な風景だけがとらえられています。

 それでいて、表現のしかたは、やはり科学者のように意識的で、陽ざしをあびたゴムまりの・あわただしく移り変る明暗を「灰色」「光の標本」という言い方で叙しています。


「雲は羊毛とちぢれ
 黒緑赤楊
(はん)のモザイツク
 またなかぞらには氷片の雲がうかび
 すすきはきらつと光つて過ぎる
     
〔…〕

 沼はきれいに鉋をかけられ
 朧ろな秋の水ゾルと
 つめたくぬるぬるした蓴
(じゆん)菜とから組成され」
『春と修羅』「雲とはんのき」より。



 「雲は羊毛とちぢれ/黒緑ハンのモザイック/またなかぞらには氷片の雲がうかび」は、図案化したクレヨン画のような、絵本の挿絵のような、いわば「幼児的」とも言える原質的な対象把握ですが、そこに作者の成型意識が働いていることは明らかです。

 「すすきはきらつと光つて過ぎる」は、作者を乗せた列車の窓を通り過ぎて行く風景ですが、ススキが作者に合図を送っているようなアニミズムを感じさせます。

 全体に、風景は、硬質の世界として成型されています。「きれいに鉋をかけられ」た水面も、硬質のイメージでとらえられています。しかし、そこにすぐ隣り合わせて、「水ゾル」と「ぬるぬるした蓴菜」という官能的イメージが現れます。

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