宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第2章 賢治詩の特異性をめぐって
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  いかに雲の原のかなしさ
  あれ草も微風もなべて猩紅の熱。

        ※

  火のごとき
  むら雲飛びて薄明は
  われもわが手もたよりなきかな。

        ※

  なつかしき
  地球はいづこ
  いまははや
  ふせど仰げどありかもわかず。

        ※

  そらに居て
  みどりのほのほかなしむと
  地球のひとのしるやしらずや。

『歌稿B』#157-160. [1914年]




 はじめの2首は、病熱の微睡のなかで「雲の原」の上にいるような幻想の中に入って行きます。そして、3首目で、いきなり地球外の空間にいる自分を意識し、地球に残っている人々を遠く思いやるのです。

 時間的・空間的な自在さ。かけ離れた時間・空間が、日常空間と隣り合わせにいきなり出現し、また消えてしまう気まぐれのような動き。それは、賢治詩のひとつの特質をなしています。


 賢治詩の特質について、吉本氏の述べるところを、さらに見ていきますと:


「自然物に対して思想的な抽象的な形容を用ひたり或は反対に思想的な感性的な部分に即物的な形容を用ひたりして、彼の表現の自由さが、自然と人間との隙壁を混沌としてゐる
〔…〕

 術語を自在に使駆しての即物的な表現は、彼の初期の作品の最大の特色を成してゐます 
〔…〕実在と抽象とが錯交して表現されてゐる彼の即物的表現」
吉本隆明「宮沢詩学の解析について」(執筆 1945年9月24日), in:『吉本隆明全著作集』,第15巻,p.386.




「岩頸だつて岩鐘だつて
 みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」

『春と修羅』「雲の信号」より。



「北ぞらのちぢれ羊から
 おれの崇敬は照りかへされ」

『春と修羅』「雲とはんのき」より。


 最初の例では、「岩頸」「岩鐘」という自然の景物を、「時間のないころのゆめをみ」るという思想的・感情的な表現で形容しています。

 つぎの例では、「おれの崇敬」という思想的なことがらを、北空にかかるちぎれ雲から陽が照射してくるという即物的な描写でかたどって表現しています。

 賢治詩のこうした「表現の自由さが、自然と人間との隙壁を混沌と」させるひとつの原因になっていると言えます。

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