ゆらぐ蜉蝣文字
□第0章 いんとろ
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0.8.3
◇◆◇ 接近 ◆◇◆
このエキセントリックな新入生に、先に魅了されたのは、賢治のほうであったようです。
その年の夏期休暇中、賢治は東京に出て1ヶ月間のドイツ語講習会を受けますが、山梨の保阪に何度も手紙を書き、手紙には自作の短歌を計30首も書き込んで、真情を伝えようとしています:
「甲斐に行く万世橋の停車場をふつとあわれに思ひけるかな。」
嘉内のほうは、盛岡からの帰省列車の中で、↓次の短歌を詠んでいます:
「暮れてゆく花巻町はかにかくに北上川の流れ滑らかに」
嘉内と出会ってから、賢治には大きな変化が現れました。まず、それまで仏教一本やりだった賢治が、キリスト教に関心の深い嘉内の影響で、教会に通うようになり、東京でもニコライ堂を詠んだ歌を幾つも嘉内に書き送っています。
賢治は、中学生時代から短歌を書いていましたが、非常にシャイで、親しい友人にも見せず、投稿などもしませんでした。しかし、嘉内と出会ってからは、嘉内に読ませるための歌を作って送っただけでなく、高農の『校友会会報』にも投稿し、合評会に参加するようになるのです。
9月に東京を発つ際には、賢治は嘉内に宛てて、
「あなたが手紙を呉れないので少し私は憤ってゐます」
と書いています。
◇◆◇ 《アザリア》結成 ◆◇◆
翌1917年7月1日、賢治、嘉内、小菅健吉(賢治と同学年)、河本義行(嘉内と同学年)の4人を中心に同人誌《アザリア》を発刊。7日には10名での合評会のあと、4人は雫石の先まで徹夜の徒歩旅行。その状況は、賢治、嘉内、ともに書き残していますが、賢治の散文『秋田街道』には、
「今日こそ飛んで
あの雲を踏め」
という挿入句が目立っています。
7月14-15日には、賢治と嘉内の二人だけで岩手山に登山。賢治の歌:
「柏ばら
ほのほたえたるたいまつを
ふたりかたみに
吹きてありけり」
そして、保阪宛ての手紙には、この夜の思い出を都度都度書いています:
「銀河がしらしらと南から北にかかり、静かな裾野のうすあかりの中に、消えたたいまつを吹いてゐた」
「あなたとかはるがはる一生懸命そのおきを吹いた。」
「私共は一諸に明るひ街を歩くには適しません。〔…〕銀河の砂礫のはなつひかりのなかに居て火の消えたたいまつ、夢の赤児の掌、夜の幻の華の様なたいまつを見詰めてゐるのにはいゝのですが。」
そして、二人の間は、この夜を境に急接近しています。《アザリア》誌上でも、互いに呼応する短歌や文章を発表し、保阪は、「打てば響く」と題した文章で、賢治の歌にふれて:
「友よ、まことの恋人よ、倚り来よ。
われと思ふさま泣かうではないか」
と書いています。一方、賢治は、すでに《アザリア》1号に載せた「旅人のはなしから」の中で、主人公の“旅人”は、
「女をも男をも、ある時は木を愛したり、」
と書いていました。
こうした経緯から、菅原千恵子氏は、岩手山登山の夜に、二人の間で“銀河の下の誓い”がなされたと推定しています:
「二人の誓いは、互いの宗教性〔嘉内のキリスト教と賢治の仏教──ギトン注〕に裏付けられた真理の道、無上道、理想の国をめざそうというような誓いであり、その道を歩くためならば、自己犠牲をも辞さないというものではなかっただろうか。」(『宮沢賢治の青春』,p.44)
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