宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ
□第4章 “こころ”と世界
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仏教、とくに大乗仏教の哲学では、私たちが日常経験する事物はすべて‘仮象’(現象)にすぎない。心にそう見えているだけだ。ほんとうに実在する対象(実体、本体)ではないのだと説きます。
現象学にも“現象学的還元(超越論的還元)”という操作がありましたが、現象学のほうは、あくまでも、私たちの意識の働きを分析する手段として、現実の世界の“実在感”を一時的に停止(エポケー)するだけです。この世は実在しないなどと信じるわけではありません。また、現実の世界として見える事物は、エポケーのあいだもそのまま見えているわけで、ただ、それら事物は、空想や幻想と同等の《現象》として扱われるのです。
ところが、大乗仏教の中観派、唯識派などは、目に見える日常世界はすべてまぼろしにすぎない、“こころ”が幻影を見ているだけだと断定し、そう確信することが“悟り”の前提とされます。つまり、完全な唯心論です。“いろは歌”に
「うゐ(有為)のおくやま けふ(今日)こえて」
とあるように、このような唯心論を確信することが、日本中世の知識人にとっては、目指すべき境地でした。
それでは、現実世界が実在しないのだとしたら、実在するものは何なのか?‥それは「仏(ほとけ)」です。有為転変の輪廻から解脱した「仏」だけが、真に実在するもの、すなわち“本体(実体)”なのです。
これを図式化すると、↓つぎのようになるでしょう:
実体──「仏」 ……実在するもの
(本体)
↑
↓
現象──この世 ……心が見ている“まぼろし”
(仮象)
秋枝美保氏は、賢治研究者として1920年代の日蓮宗・教学について調査し、つぎのようにまとめています:
「『本体論』をどう捉えるか〔…〕
それは、日蓮教学の用語としては、『本尊論』『本仏観』に当たる。仏の現れ方を『法身』『報身』『応身』の『三身』に分けて論じる。〔…〕『法身』は全くの『形而上的な本体論的実在』になると考えて良い。」
日蓮の場合には、「仏」の「法身」とは「『単なる法身でなく、哲学でいふ宇宙の実在たると共に、宗教の対象として慈悲奕々人格実在たり得る事法身』をとる」。
「法華経を『本尊』とするあり方が日蓮の信仰の独自性である〔…〕その本仏観は、様々な宗派〔…〕の仏をすべて含みこむ『〔…〕本仏本尊である』とされ、それは『哲学の実在概念に合一し、宗教の稀有なる一神観的神秘主義に共鳴し、〔…〕』」とされる。
「その『本尊論』は、賢治の『序』〔『春と修羅』「序詩」―――ギトン注〕に示された現実認識、特に現象と本体についての考え方とは結局異なると言わざるを得ない。」
秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想』,第2版,2006,朝文社,pp.282-285.
この世、すなわち現実世界は、“現象”である―――私たちに、そのときどきにそう見える“あらわれ”にすぎない。…ここまでは賢治も同意します。
しかし、仏教が“真に実在するものだ”と教える“仏の世界”は、けっきょくは相対的な“真理”にすぎない。それは、人間の考え出した理論(仮説)のひとつにすぎない。なぜなら、それは「実験」によって検証されたわけではないからです。
『春と修羅』「序詩」にも、
「これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です」
とありました。
「ほとけ」だけが「本体(実体、実在、本仏)」であるとする「本体論」、唯一神エホヴァだけが実在だとする「本体論」、イデアだけが実在すると説く「本体論」‥‥さまざまな「本体論」があるなかで、どれが正しいのかを判定する物差しは存在しない以上、「本体論」は、どれもこれも相対的真理にすぎません。
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