宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第2章 賢治詩の特異性をめぐって
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宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ

―――「心象スケッチ」論序説


 2 賢治詩の特異性をめぐって ――― (i) 吉本隆明



【この節のアウトライン】 吉本隆明による賢治詩の特異性の
指摘から、賢治詩の《方法》を解明する端緒
を得ようとする。





 今度は、すこし別の角度から見て行きたいと思います。

 吉本隆明は、宮沢賢治の作品を論じた初期の論考のなかで、↓こう述べています:


「彼
〔宮沢賢治―――ギトン注〕は空間と時間に関する感覚が全く無軌道であったといふ事が作品の上から明らかに指摘されます 彼は億光年の太陽系外の事をもまるで、眼前にあるもののやうに平然と且又充分な具体性を以て受感し描出すことが出来ました

 これは時間と言ふことについても全く同様でした 彼は壮大な地質時代の時劫の流れを如実に、体験として把握し彼が第三期新生層の上に生活し、思想し、自由に飛躍することが出来ました

 彼は人類を横の拡りとして確実に眺めることが出来たと同様に、幾十万年の歴史的な流れとして人類を眺めてゐます 彼が空間と時間に対する受感に於て常人に勝る深度と奔放さを持つてゐたことは確かに彼の作品を不可思儀なものに致しました」

吉本隆明「異常感覚感の由来について」(執筆 1945.10.12.), in:ders.『初期ノート』,2006,光文社文庫(⇒:電子書籍


 宮沢賢治の特徴は、この“日常世界と隣り合わせ”ということだと思います。数億光年の宇宙のかなたを旅する話も、地質時代の恐竜のいる羊歯の森に分け入る話も、賢治の時代には珍しかったかもしれませんが、今では、SF小説に映画に、いくらでもあります。

 しかし、SF小説ではSFの世界が完結して描かれるし、地質時代と現在の世界との往復には“タイムマシン”という一定の手続を必要とします。現在時・地球上の日常世界を散策しながら、いきなり脈絡もなく、宇宙のかなたや地質時代が飛び出して来るようなことはないのです。ところが、


  いま見はらかす耕地のはづれ
  向ふの青草の高みに四五本乱れて
  なんといふ気まぐれなさくらだらう
      
〔…〕

    (空でひとむらの海綿白金
(プラチナムスポンヂ)がちぎれる)

  それらかゞやく氷片の懸吊
(けんちよう)をふみ
  青らむ天のうつろのなかへ
  かたなのやうにつきすすみ
  すべて水いろの哀愁を焚
(た)
  さびしい反照
(はんせう)の偏光を截れ
  いま日を横ぎる黒雲は
  侏羅
(じゆら)や白堊のまつくらな森林のなか
  爬虫
(はちゆう)がけはしく歯を鳴らして飛ぶ
  その氾濫の水けむりからのぼつたのだ
  たれも見てゐないその地質時代の林の底を
  水は濁つてどんどんながれた
  いまこそおれはさびしくない
      
〔…〕

  大びらにまつすぐに進んで
  それでいけないといふのなら
  田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ

『春と修羅』「小岩井農場・パート4」より。


 上から3行目の「なんといふ気まぐれなさくらだらう」まで、また、下のほうの「いまこそおれはさびしくない」以下は、小岩井農場の農道を、考えごとをしながら歩いている作者の考えや目に映る景物が描かれています。

 しかし、その間には、空に光る積乱雲の中へ突き進み、「青らむ天」に浮かぶ氷片を踏んでゆくような、あるいは、翼竜の飛ぶジュラ紀の森林の中を「水は濁つてどんどんながれ」るようすが描かれます。

 それらの幻想的情景は、農場散策の日常風景とまったく境目もなく連続しているのです。そして、なにもなかったようにすぐまた散策歩行に戻っているのです。

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