宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
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「本質直観は、一定の事実を想像の中で『自由変更』することによって得られ」
る。

「本質を直観しようとするなら、一つの具体的経験を考察し、それを頭の中で変容させ、それがあらゆる連関のもとで実際にどのように変容するかを想像することに努めればよいのであって、この変化を通じてそこに不変なままにとどまるものがあれば、それこそが当該現象の本質をなすものなのです。

 たとえば空間形態というものの理念を形成しようとするなら、あるいは同じことですが、その本質に達しようと思うなら、われわれはたとえばこの電球のような或る空間形態の知覚を参照にし、この空間形態に含まれているすべての連関を想像のなかで変容させてみればよいわけです。そして、その対象そのものが消え去らないかぎり変容されないものがあれば、それがその対象
〔“空間形態”というもの―――ギトン注〕の本質です。」
メルロ=ポンティ,木田元・訳「人間の科学と現象学」(原:1950-51年 講義), in:木田元・編『人間の科学と現象学』,メルロ=ポンティ・コレクション 1,2001,みすず書房,pp.91-92.


 つまり、電球でも箱でも何でもよいのですが、想像の中でそれを、まるい形にしたり、サイコロの形にしたり、いろいろに変えて、それらすべてに共通する「空間形態(空間図形)」という一般的なものを得る作業が、「自由変更」による《本質直観》です。

 私たちは、中学や高校で空間図形(空間形態)を習っているので、そんなめんどうなことをしなくても、「空間図形」とは何なのかわかっているのですが、メルロ=ポンティは、「空間図形」の《本質》を明確に意識するには、このような操作を行えばよいと言っているのです。


 ここで、私たちにとって示唆的なのは、《自由変更》という操作は、想像のなかで行われると言っていることです。

 宮沢賢治の“推敲”も、現場でのメモや、メモからまとめた下書稿、それをさらに再考した逐次の下書稿を見ながら、想像のなかで行われます。現場での《体験》を想起したり、自由な想像で補ったりしながら、「心象」の《追体験》が行われ、その結果を記していきます。

 賢治の詩の草稿を見ると、一次体験と懸け離れた想像や、過去の作品のモチーフなどが呼び出されてくることもありますが、《体験》のさまざまな局面(アスペクト)を、想像のなかでいろいろに換えて、作品世界に置いて試しているような“推敲”もあります:



 


「   社会主事 佐伯正氏

 群れてかゞやく辛夷花樹
(マグノリア)
 雪しろたゝくねこやなぎ
 風は明るしこの郷
(さと)
 士
(ひと)はそゞろに吝(やぶさ)けき

 まんさんとして漂へば
 水いろあはき日曜
(どんたく)
 馬を相するをのこらは
 こなたにまみを凝すなり」

『文語詩稿一百篇』より〔定稿(一)〕


 これは、岩手県の社会主事をしていた佐伯という人なのですが、役所で疎んぜられたためでしょうか、心情的に落ちぶれて荒れたようになり、旅館で泥酔して大声で詩吟をがなったり、裕福な家を訪れて酒をせびったり、はては文学好きの若い人たちに近づいて迷惑を及ぼしたりしていました。

 当時は、県の役人と言えば“偉いさん”でしたから、旅館でも知り合いの家でも、逆らうようなことは何も言えなかったようです。宮澤家でもたいへん困って、賢治がやむなく佐伯氏のお供をして花巻の町を彷徨したことがありました。(儀府成一「社会主事 佐伯正氏―――宮沢賢治の文語詩を繞って」,in:『啄木と賢治』,12号,1979年,pp.2-23.)

 その散策のようすを、佐伯氏の実名をタイトルにして書いたこの文語詩を、賢治は、直接本人に送って諫言するつもりだったのかもしれません。佐伯氏宛ての書きかけの書簡が残っています。

 ここで検討したいのは、4行目です。酔って悪態を吐き散らしながらふらふらと歩く佐伯氏に、町の人たちが鋭い視線を向けているのですが、それが、この〔定稿〕では「馬を相する をのこ ら」となっています。たしかに、宮澤家のある豊澤町には馬喰の兄弟がいました。
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