宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
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「今日私がある演奏会に行き、第9交響曲を聴くということは、確かに一つの事実であり、外的諸条件によって規定された単なる事実にすぎません。しかし他方、
〔…〕第9交響曲というものは、私がそれを聴いている今のこの時間に閉じこめられているわけではありません。人びとが行うさまざまな演奏のうちに、第9交響曲が<姿を現わしている>というだけのことです。〔…〕

 私が自分の経験からそこに含まれているすべてを引き出し、その時私が生きることのできたものをうまく主題化することができれば、私は個別的でもなければ偶然的でもない<或るもの>、つまり本質上の第9交響曲とでもいったものに出会うわけです。

 意識がこのように或る種の対象、いわゆる『志向的対象』へ向っていること、これがフッサールの<志向性>(Intentionalität)と呼んでいるものにほかなりません。
〔…〕

 本質直観によって
〔…〕私は自分の特殊な個人的生活に閉じこめられることなく、あらゆる人にとって妥当する知識に近づいているのです。」
「人間の科学と現象学」, in:メルロ=ポンティ・コレクション 1,pp.58-60.


 音楽の演奏というものは、誰が弾くかによって違うだけでなく、同じ演奏家の演奏でも、その時々によって微妙に違います。“いま”“ここ”で、ある交響楽団が演奏している「第9」を、私たちは“ベートーヴェンの・あの「第9」”のひとつの“あらわれ”として聴きます。その視聴体験は、私の一回限りの《体験》にすぎませんが、私は単に一回限りの騒音を聞き流しているわけではなく、その音を、なんとなく「第9」という《本質》の現れとして聴き取っています。

 しかし、音楽というのは、はじめて1回聞いた時には、あまりピンと来ないことが多いものです。クラシックのような複雑な曲なら、なおさらでしょう。何度も同じ曲を聴いているうちに、だんだん“良さ”がわかってきます。その過程は、《自由変更》によって《本質》に至る操作と、よく似ていると言えます。

 私たちは、前衛音楽や、現代絵画に対して、「どうもよくわからない。」と言うことがありますが、この「わからない」とは、何が「わからない」のかというと、その曲や絵画の《本質》がうまく捉えきれないということだと思います。

 演奏会で各交響楽団が演奏する音の集合体は、この曲のそれぞれの機会における“あらわれ”でしかないとしたら、それでは、「第9」という曲そのものは、いったいどこにあるのでしょうか?

 プログラムに書かれた「交響曲第9番」という文字列が、この曲そのものでないことは明らかです。スコアに並んだ音符が「第9」なのでしょうか?‥それも、紙の上に置かれたインクにすぎません。じつは、「第9」という曲そのものは、どこにもないのです。なぜなら、それは《本質》だからです。実在の現実世界のどこにもないが、しかし、いつもずっとある普遍的存在が、「第9」という曲であり、この曲の《本質》なのです。演奏会が終れば、この《本質》の現れである音群は、すべて消えてしまいますが、《本質》としての「第9」が消滅することはありません。

 そこで、私たちは、演奏会に出かけることによって、ある交響楽団の演奏という“あらわれ”を通じ、《本質》としての「第9」に出会うことができるかもしれません。しかし、どのていど純粋な研ぎ澄まされた《本質》に出会えるかは、私たちの視聴経験の蓄積や、感性や、指揮者と演奏家たちの技量に左右されることでしょう。

 そして、もし私たちが、この演奏会の視聴《体験》を、説得力のある文章や談話で他人に示すことができれば、私たちは、私たちの出会った「第9」の《本質》を、コトバで表現したことになります。





 こうして私たちは、現象学の言う《本質看取》について、「机」→「音楽」 と見てきたので、さらに私たちのテーマ(宮沢賢治の詩)に近づけるために、小説に関する議論を見たいと思います。


「偉大な小説家の作品は、いつも2,3の哲学的観念によって支えられているものだ。そこで、例えばスタンダールには『自我』と『自由』という観念、バルザックには、雑多な出来事の偶然の中に或る意味の出現するものが歴史だというその不思議さの観念、そしてプルーストには、過去が現在のうちに包みこまれたり、失われた時間が現前するという観念があるとしよう。

 しかし、小説家の職務はそれらの観念を主題化することではなく、それらをちょうど物のようにわれわれの眼前に存在させることである。主観性について説くことがスタンダールの役目なのではなく、彼は、それを現前化させるだけで十分なのだ(1)。

 (1) ちょうど、スタンダールが『赤と黒』の中で行なっているように、である。」

メルロ=ポンティ,滝浦静雄・訳「小説と形而上学」(原:1945年), in:木田元・編『人間の科学と現象学』,メルロ=ポンティ・コレクション 1,2001,みすず書房,pp188-189.


 ↑ここでメルロ=ポンティが引用しているのは数行ですが、フランスの読者でない私たちには、もう少し広い範囲を見たほうがわかりやすいので、小説『赤と黒』から直接引用します。

 (『赤と黒』を読んだことがない人は、まずこちらで、あらすじを頭に入れてください。⇒:朝日出版社・世界文学案内『赤と黒』
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