宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
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(ii) 《本質》は何をめざすのか?




【この節のアウトライン】 《本質直観》についてのメルロ=ポ
ンティの考え方を“導きの糸”として、宮沢
賢治の“限りない推敲”による“理念化”と
、《いきいきとした現在》との関係を探る。


 
   モーリス・メルロ=ポンティ。
左はシモーヌ・ド・ボーヴォワール



「われわれの実存はあまりにぴったりと世界のなかにとり込まれてしまっているため、世界のなかに投げ込まれているそのときにはそうなっている自分を認識することができず、したがって、われわれの実存は自分の事実性を認識し克服するためにはまず理念性(本質性)の領野を必要とする、」

「あきらかに、ここでは本質は目的ではなく手段なのであって、世界へのわれわれの実際の参加こそがまさに了解され概念にもたらされねばならぬ当のものであ」
る。
メルロ=ポンティ,竹内芳郎・訳「『知覚の現象学』序文」, in:メルロ=ポンティ・コレクション 1,pp.19-20.

「現象から本質への移行を促すフッサールの〈形象的還元〉についてふれながら、メルロ=ポンティは
〔…〕〈形象的還元〉を、現象学の目的としてではなく手段として明確に位置づけ直している。」
岩川直樹『〈私〉の思想家 宮沢賢治 「春と修羅」の心理学』,2000,花伝社,pp.180-182.


 《本質直観》が、目的ではなく手段であり、私たちの目的は、時間・空間によって限定された自分の「事実性」を克服し、世界へのよりよい参加のしかたを知ることなのだとしたら、

 そこにおいて看取される《本質》とは、事実から切り離された幾何学図形のような抽象的なものではなく、生き生きとした私たちの一回限りの生の軌跡を刻印されたものなのではないか?‥‥そういうことが考えられてきます。


「この『本質直観』なるものの具体的なそして身近な性格を強調し、それについていつも下される誤った解釈からフッサールを守ってやる必要がありましょう。
〔…〕

 われわれが生きぬいている経験、フッサールのいわゆる体験(Erlebnisse)は、なるほどそれを外から観察するものにとっては、社会的に規定され、物理的に限定されておりましょう。しかし、それとは別に、この経験が普遍的・間主観的・絶対的意味を得てくる面から、それを捉える手段
〔物理学者の“帰納法”、フッサールの“本質直観”など、いろいろな手段がある―――ギトン注〕のあることも事実です。そのためには、私がただこの経験を生きるのに甘んじることなく、その経験の意味を取り出してこなくてはならないのであり、そしてこれがほかならぬ『形相的直観』〔=本質直観―――ギトン注〕なのです。」
メルロ=ポンティ,木田元・訳「人間の科学と現象学」(原:1950-51年 講義), in:木田元・編『人間の科学と現象学』,メルロ=ポンティ・コレクション 1,2001,みすず書房,p.58.


 《本質直観》は、私たちの日常の経験から出てくるのですが、しかし、私たち個人個人の《体験》というものは、「社会的に規定され、物理的に限定され」たものだと見られてしまうかもしれません。

 「机」のような卑近なものの《本質》ならばともかく、「自由」の《本質》、「芸術」の本質、‥などということを一介の私などが言い出せば、そんなのは無名なやつが、自分の「限定され」た狭い体験から言っているにすぎない、と一笑に付されてしまいます。

 しかし、私が、自分の「この経験を生きるのに甘んじることなく、その経験の意味を取り出し」、より明晰な《本質》として研ぎ澄まし、明証化するならば、他の人たちに対しても説得力のある、普遍的な「形相」(本質)を看取することとなるのです。
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