ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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7.11.2
それでは、【下書稿(二)】から見ていきたいと思います:
. 札幌市
「 札幌市
遠くなだれる灰光のそらと
歪んだ町の広場のなかで
わたくしは 湧きあがるかなしさを
青い神話としてまきちらしたけれども
小鳥らはそれを啄まなかった」【下書稿(二)】
「灰光のそら」は、いまいち様子が分かりませんが、【下書稿(一)】では:
「遠くなだれる灰いろのそらと」
となっていますから、灰色に曇って、しかもところどころ光っている空──前nの写真のような空ではないでしょうか?‥季節は違いますが、これも札幌市内です。
ともかく、「遠くなだれる灰光」という風景は、「湧きあがるかなしさ」に繋がってゆく《心象》です。
町はなぜ「歪ん」でいるのでしょうか?‥無理に理由を持ち込まないほうがよいでしょう。とにかくゆがんでいるのです。灰色の広い広い空の下で、空の重さと、閃光の明るさに打ちひしがれて、町は、ゆがむほかはない。
札幌市は、どんな町でしょうか?あるいは、1920年代に、どんな町だったでしょうか?
中心部には、「殖民地風」の気取った建物が多かったでしょう。道庁のような赤煉瓦造りが混っていても、大部分は、木造だったでしょう。周辺に広がる家々も、無表情で簡単な造りのものが多かったでしょう。そして、空き地が多く、家はまばら。幅広い道路が、どれもこれも真直ぐに延びているでしょう。
広場に、人の姿は稀れです。
そんな‥いわば無機質な町が、「灰光のそら」の下で潰され、「歪ん」でいる時、「わたくし」は「湧きあがるかなしさ」を、どこへ持っていけばよいのでしょうか?‥
「青い神話」のかけらは、「わたくし」には、珠玉のように美しく見えます。自分の持てるものの中で、これ以上大切なものはないと思えるほどに、透きとおって魅惑的に輝きます。
しかし、それを広場に撒き散らしても、「小鳥」らは、そんなものは餌にはならない──と言わんばかりに、見向きもしなかったのでした。
開拓地では、誰もが忙しいのです。誰もが、自己の明日の糧を得ることに忙殺されています。“青いかけら”を覗きこんでいるひまは、ないのです。
ここに描かれているのは、異郷の町で作者が感じた──突き当たった、よるべない喪失感、無力感、疎外感ではなかったでしょうか?
つぎに、【下書稿(三)】:
. 札幌市
「 札幌市
遠くなだれる灰光と
貨物列車のふるひのなかで
わたくしは湧きあがるかなしさを
青い神話のきれにして
開拓紀念の石碑の下に
力いっぱい撒いたけれども
小鳥はそれを啄まなかった」【下書稿(三)】
「歪んだ町の広場のなかで」が、「貨物列車のふるひのなかで」に置き換わりました。「歪んだ町」は、モチーフとしては、町でなくてもよかったのかもしれません。
「貨物列車のふるひ」は、駅を通り過ぎる貨物列車の振動が、空気を震わせて伝ってくるのです。
貨物列車は、ダイヤにしたがって正確に通り過ぎます。その線路は、この国の首都にも繋がっているし、異国へも繋がっていきます。ただただ正確に、空気を震わせて走る列車は、「わたくし」の・救いのない「かなしみ」を、呼び起こさずにはいないのです。
貨物列車は無人です。そこには、“りんごを食べる乗客”などは乗っていません。
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