ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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7.8.4
A「夏の相聞。鳥に寄せたる。
春されば すがるなす野の ほととぎす
ほとほと妹(いも)に 逢はず来にけり」(10・1979 詠人不知)
〔夏の相聞歌。鳥に寄せて想いを述べる:
春になるとスガルが羽音を鳴らす野原のホトトギス、その名のように、もう少しでお前に逢わずにきてしまうところだったなあ〕
Aは、鳥のホトトギスと、「ほとほと」(≒英語の almost)を掛けただじゃれの相聞歌。「すがるなす野」は、さまざまな説があって解釈が確定しません。「すがる」は、単なる叙景と思われますが、2句の読み方によっては、男性(詠み人)、あるいは女性(詠み人の相手)の比喩とも取れなくはない。
B「〔…〕禁娘(いさめ)をとめが
ほの聞きて 我れにおこせし
水縹(みなはだ)の 絹の帯を
引き帯なす 韓帯(からおび)に取らし
わたつみの 殿のいらかに
水縹(みなはだ)の 絹の帯を
飛び翔ける すがるのごとき
腰細に 取り装ほひ
まそ鏡 取り雙(な)め懸けて
おのがなり かへらひ見つつ
〔…〕」(16・3791 竹取翁)
〔屋敷に禁足されている娘が、[私が娘の親に追い払われたことを]伝え聞いて、水色の絹帯を私に贈ってよこした。私は、その帯を、韓帯(からおび)のように、折りたたんで付け紐のようにして、宮殿の屋根のてっぺんにある甍(いらか)へ飛び翔けるスガルのように細い私の腰に巻きつけて、美しく装い、鏡を二つ並べて壁に懸けると、その前で身体を回しては自分の姿にうっとりと眺め入ったものだ。〕
Bは、竹取翁が、自分が美男子だった若き日を回想して詠っているもの。親に外出を禁止されている箱入り娘が青年竹取に求婚してきたので、娘の家の庭へ行って佇んでいたら、娘の親に追い払われてしまった。それを使用人からかろうじて聞き及んだ娘は、青年竹取に水色の絹帯を贈り届けた。竹取は喜んで、「すがる」のようにほっそりした自分の腰に、絹帯を粋ななりに身につけ、鏡の前で、自分の姿に見とれるのだった。竹取が外出すると、彼に気があるのか、キジは鳴き、雲はたなびく、道を行く官女や舎人も振り返ってじっと見つめているようなありさまだ。‥‥
ここでは、スリムな美形の男を「すがる」に喩えています。
↑↑そうすると、3例のうち、男の比喩と女の比喩が1対1、どちらでもないのが1──ということで、“スガルは美女の喩え”“腰細は美女の基準”などとは言えなくなります。
しかも、和歌以外の使用例(『日本書紀』,『日本霊異記』)は、「すがる」という人名ですが、2書とも男性の名前です。
したがって、むしろ、古語の「すがる」は、主に、若い男性のイケメン基準だったのであって、女性に使用された例(『万葉集』に1例あるだけ!!)は、東国での例外的な使用例だ──とさえ言えるのではないかと思います。
以上から、結論として言えることは、「すがる」(ジガバチ)で比喩されるものは、必ずしも女性ではない、むしろ、若い男性のほうがふさわしい、ということです。
そもそもスガル(ジガバチ)のスマートな外見や、狩人蜂という習性☆は、男性的に感じられます。
『万葉集』の上総の民話(@)も、狩人蜂の習性に着目した比喩(恋人を狩る女)のように思われるのです。
☆(注) ジガバチは、アオムシなどの獲物に麻酔性の毒液を注射して卵を産みつけ、土中の巣穴に閉じ込めます。獲物の上で生まれたジガバチの幼虫は、仮死状態の獲物(アオムシ)を食べて成長し、食べ尽くすとサナギになります。
少なくとも、『万葉集』の時代には、細腰は、主に男の美形基準だった、あるいは、百歩譲っても、男女に拘りなく美形の基準だったのです。
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