ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.5.4


つまり、“妹の死”は、自他の区別を曖昧にしてきた賢治が、否応なく直面することとなった《他者》ないし《他者性》そのものだったのです。

宮澤賢治が、単なる農学校教師で単なる生活人であったなら、それは深い感情体験として思い出に残っただけだったでしょう。“事件”を忘れたころに結婚して、奥さんも子どもたちも、父賢治の語る“妹の他界事件”に深く感動し、情操をはぐくみ、そうした情愛深い父を持ったことを幸せに思う──それだけのことで済んだにちがいありません。

しかし、賢治は単なる農学校教師でも単なる童話作家でも童謡作詞家でもなく、そうしたこと以前に、宗教者であり‘科学思想家’であったのです。宗教者であり‘科学思想家’であることから離れられないのは、彼が《見者(voyant)》であったためにほかなりません。

賢治は、“妹の死”という《他者》と直面した体験を、自らの宗教観念、あるいは《異界》的《心象》の中に位置づけておかねば、一貫した正常な自己を維持して行くことができないと感じていました。
そうした切羽詰まった気持から書き上げられたのが、「青森挽歌」であったと、ギトンは思うのです。

それは、野放図に奔騰する《異界視》によってもたらされた『春と修羅』前半部の“自我の分裂”を収拾し、一貫した主体を取戻すためには、避けて通れないことだったのです。

. 宗谷挽歌

 けれどももしとし子が夜過ぎて
 どこからか私を呼んだなら
 私はもちろん落ちて行く。

 とし子が私を呼ぶといふことはない
 呼ぶ必要のないとこに居る。

 もしそれがさうでなかったら
 (あんなひかる立派なひだのある
  紫いろのうすものを着て
  まっすぐにのぼって行ったのに。)
 もしそれがさうでなかったら
 どうして私が一諸に行ってやらないだらう。

《見者》の意識、そして“自他の区別”の曖昧さは、8ヶ月あまり前の“死”によって“自他”の間を切り離された後の・この時点においてさえ、
↑上の第1段のような感情を、しぜんに呼び起こしてしまうのです。
これに対して、↑上の第2段に表れた意識は、宗教的な観念に基くものです。
「呼ぶ必要のない」場所にいるという表現から察すると、トシはすでに《天界》に転生している──というような考えと思われます☆

☆(注) あるいは、これだけ見れば、“阿弥陀浄土にいる”とも読めるのですが、すでに「青森挽歌」などで論じたように、作者は、トシが浄土教を棄てて日蓮宗に改宗したことを強く意識していましたので、浄土観念ではないと考えられます。

「あいつはどこへ堕ちやうと
 もう無上道に屬してゐる
 力にみちてそこを進むものは
 どの空間にでも勇んでとひこんで行くのだ」
(青森挽歌)

というような──地獄などに墜ちているかも知れないが、どこに墜ちようとも「無上道」(仏の悟り)を得ているから大丈夫だ、というような観念ではないと言えます⇒7.1.81「無上道に属してゐる」

★(注) 入沢康夫氏によれば、「青森挽歌」の・この部分は、『春と修羅』印刷中の【印刷用原稿】差し替えの中でも、もっとも新しい時期のもの──1924年3月ころ──ですから、再考による改変の結果である可能性があります。したがって、この「無上道に属している」は、サハリン旅行時の賢治の考えではなく、相当後の‘改説’であるかもしれません:『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』,pp.101-102. これに対して、「宗谷挽歌」のほうは、「青森挽歌」が【印刷用原稿】に採られる前の段階の原稿のまま残っているのだと思われますから、じっさいのサハリン旅行時の賢治の考えに近いと推定できます。つまり、旅行前後の時期には、賢治は、“トシの行く末”を、『倶舎論』の枠組みや、《この世界》の中で鳥などに生まれ変わるという素朴な転生観念で、もっぱら考えていた。翌年になって、(おそらく、キリスト者斎藤宗次郎にゲラ刷りを見せて懇談した2月初め以降に)考え直し、「無上道」すなわち即身成仏という《法華経》的観念を中心にすえた‥‥このように考えられるのです。
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