ゆらぐ蜉蝣文字


第6章 無声慟哭
48ページ/73ページ


6.3.4


すなわち、ここには、@作中の「わたくし」と、Aこの作品を(フィクションとして)創造し、作品世界に統一を与えている作者自身、という“二人の私”がいるのです。

‥いや、もっと言えば、@作中の「わたくし」は、

 @[a] 「巨きな信のちからからことさらにはなれ/また純粹やちいさな徳性のかずをうしなひ〔…〕青ぐらい修羅をあるいてゐる」(3-5行)「わたくし」、また、「あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて/毒草や螢光菌のくらい野原をただよふ」(9-10行目)「わたくし」

 @[b] 死に臨んだ妹の姿を、「髪だつていつさうくろいし/まるでこどもの苹果の頬だ」(20-21行)と認識し、「きれいな頬をして/あたらしく天にうまれてくれ」(22-23行)と願う「わたくし」、また、妹の周りは「なつののはらの/ちいさな白い花の匂でいつぱいだ」(27-28行)と感じる「わたくし」

という「ふたつのこころ」に分裂しています。

しかし、そうして分裂した自己を、より高い位置から冷静に見ている“もうひとりの私”──Aの“私”がいるのです:

31わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
32わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ

しかし、さらに言えば、Aの作者自身も、

@[a]⇔[b]に分裂しているために、妹を送り出せないでいる分裂した自己を、「かなしさう」に見つめているほかはない‥“私”自身も悲しいのだから、どうか、妹は、そういう“私”から眼をそらさないでほしいと言っているのです。

結局、ここでは、Aの“私”──本来の作者自身が、“神”の高みに立って被造物を見渡しているわけではなく、妹に対しては:

33ああそんなに
34かなしく眼をそらしてはいけない

と、悲痛な胸のうちをさらけ出す生身の人間でしかないのです。

つまり、「松の針」で、「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ/泣いてわたくしにさう言つてくれ」と(無言で)叫んで死者に縋りついた「わたくし」の、延長線上にしかいないのです。



ミッチェル・プッツ・リチャード「オルフェウスとエウリディケー」       



これを、創作意識として、あるいは、自我の確立において、不徹底と言うべきでしょうか?センチメンタリティーに溺れて、冷厳であるべき作家の眼を曇らせていると評すべきでしょうか?

むしろ、創作者としての作者が、いかに高みに登りつめ、すべてを自我の下に収めようとしても、つねにそこから逃れ去ってしまう《他者》としての亡き妹を、そして、《他者》に追いすがる自己を、作者は、一点のごまかしもなく描いていると、言うべきではないでしょうか?

ともかく、そうであればこそ、賢治は、「無声慟哭」以後も、繰り返し繰り返し、作品の中で、死者を追いかけてゆくこととなるのです。
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ