ゆらぐ蜉蝣文字
□第6章 無声慟哭
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6.1.21
そこで、↓この言葉の意味を、もう一度よく考えてみたいと思います:
. 春と修羅・初版本
49 (うまれでくるたて
50 こんどはこたにわりやのごとばかりで
51 くるしまなあよにうまれてくる)
この言葉は、たしかに、多くの批評が礼賛するように、“人のために生きたい”“世の中の役に立ちたい”という大乗仏教的な理想を述べているようにも受け取れます。
しかし、賢治は、この詩「永訣の朝」で、そのようには述べていませんし、他の詩の記述を参照すれば、作者賢治は、けっしてそのような理想的な告別の辞として書いているわけではないと思います:
「こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮☆と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。」(津軽海峡)
「とし子は大きく眼をあいて
烈しい薔薇いろの火に燃されながら
(あの七月の高い熱……)
鳥が棲み空気の水のやうな林のことを考へてゐた
〔…〕
七月末のそのころに
思ひ余つたやうにとし子が言つた
《おらあど死んでもいゝはんて
あの林の中さ行ぐだい
うごいで熱は高ぐなつても
あの林の中でだらほんとに死んでもいいはんて》
鳥のやうに栗鼠のやうに
そんなにさはやかな林を恋ひ」(噴火湾(ノクターン))
☆(注) 『責善寮』は、トシが寄宿していた日本女子大学の寮。
トシは、もっと開放的にさまざまな見聞を重ねて、広い世界に生きたい、とりわけ自然の中で「鳥のやうに栗鼠のやうに」自然と交感したいと願っていたにちがいない──賢治は、そう思っていたのです。
世のため人のために何かをしたいとか、衆生を救済したいとかいうことも、その中には含まれるでしょうけれども、少なくとも賢治には、トシの主要な願いは、宗教的倫理的なことよりも、ひとりの人間として開放的に、活動的に、もっと自由に生きたいという点にあったと感じていました。
このように、賢治の主観を通して見ても、トシの最後の言葉を仏教的に理解することには、疑問を持たざるをえません。
それは、「またひとにうまれてくるときは/こんなにじぶんのことばかりで/くるしまないやうにうまれてきます」という標準語化された“翻訳”よりも、
「(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)」
という方言で書かれたままを読むときに、いっそう強く感じられます。
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