ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.14.5


賢治が嘉内に宛てた葉書の郵便局消印([ ]内は賢治の発信地表示)を並べてみますと:

1917.8.28.午後6-9 岩谷堂

1917.8.31.午後0-3 羽田[田茂山]☆

1917.9.2.午前9-12 伊手

1917.9.3.午後3-6 米里[人首]★

☆(注) 江刺郡羽田村(現:奥州市水沢区羽田町)は、東北新幹線水沢江刺駅周辺の地域。旧・田茂山村は、羽田村の一部。

★(注) 人首(ひとかべ)村は、1875年に米里村に改称。1955年町村統合で江刺町となるまで“米里村”でした。現在:奥州市江刺区米里。したがって、賢治の時代には正式には“人首”という町村は無かったのですが、賢治は旧名称にこだわって“人首”と呼んでいます。おそらく地元ではずっと“人首”と呼んでいたのだと思います。

↑これと、賢治の歌稿、高橋秀松らの回想記を併せて考察しますと、次のような調査ルートが推定できます◇:

8月28日 江刺郡田原村岩谷堂で地質調査開始、同夜は、岩谷堂に宿泊。

8月29日 伊手川谷を下降しつつ調査。原体(田原村新田)を通過?

8月30日 伊手川谷沿いに田原村〜羽田村を調査。

8月31日 羽田村付近を調査。昼過ぎ、羽田村田茂山を通過。羽田村に宿泊か。同夜、原体で剣舞を見たか?【推定α】

9月1日 黒石村〜伊手村を調査、黒石村正法寺に参詣か◆。伊手村に宿泊。

9月2日 伊手村付近を調査。同夜、“上伊手”集落で剣舞を見たか。

9月3日 人首(米里村)を調査、人首に宿泊。

9月4日〜 人首川を遡り、種山ヶ原、物見山方面を調査▼

9月7日頃 地質調査終了か。このころ、帰途に原体で剣舞を見たか?【推定β】

◇(注) (土性調査でなく)地質調査であるとすれば、河谷に沿って、地層の露頭を探して歩くことになると思われます。31日昼過ぎに、「羽田」の消印で葉書を出していますから、原体付近は29-30日に通過していることになります。原体で剣舞を見たのは、この2夜のどちらかかもしれません。しかし、31日は田茂山で宿泊し、1日が黒石方面とすれば、31日夜に原体へ剣舞を見に行ってくることは可能です。

◆(注) 黒石村(現:奥州市水沢区黒石町)は、羽田村の南隣り。賢治の嘉内宛9月2日付葉書に描かれている蛇紋岩の露出した山は、黒石寺付近の景観と推定します:画像ファイル:蛇紋岩(水沢・黒石寺)

▼(注) 賢治の『歌稿A』『歌稿B』ともに、掲載順序は、上伊手剣舞連⇒種山ヶ原⇒原体剣舞連となっていますが、種山方面の調査には日数がかかると思われますから、場所資料の残っていない9月4日以降の日程に当てはめるのが妥当です。

ともかく、1917年の地質調査行では、以上のような日程によって、次の短歌群が発生しました↓:

「うす月にかゞやきいでし踊り子の異形[いぎょう]のすがた見れば泣かゆも。

 剣まひの紅(あか)ひたゝれはきらめきてうす月しめる地にひるがへる。

 月更[ふ]けて井手に入りたる剣まひの異形のすがたこゝろみだるゝ。

 うす月の天をも仰ぎ太鼓うつ井手の剣まひわれ見てなかゆ。」
(保阪嘉内宛 1917.9.3. #40)
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