ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
98ページ/184ページ


3.6.21


「端正なギリシャの精神」と言っていますが、ギリシャの古典時代の彫刻は、女性像も端正ですっきりとしています。「中性的」という評価もあるくらいです:画像ファイル:ヴィーナス

ここには、賢治の理想とする女性像が現れているのだと思います。透明な明るさ、端正で調和した装い、「背が高く真っ直ぐ」……、「動き出した彫像といふやうに…正しくみんな行き過ぎる」と書いています:

. 「小岩井農場」【清書稿】

「(あの鐘ぁ十二時すか。)
 『はあそでごあんす。』
 みんながしづかに答へてゐる。
 これではまるでオペラぢゃないか。
 動き出した彫像といふやうに
 しづかにこっちを見やりながら
 正しくみんな行き過ぎる。」

つまり、限りなく性を削ぎ落とした‘歩く石像’と言ってもよいような姿です。

もちろん、現実の野良仕事帰りの女性たちが、汗ひとつ匂わせずに歩いているはずはありませんから、これは、あくまでも作者の理想化が加わった姿です。

しかし、それにしても、同性愛者である賢治の眼には、大人の女性は、性的対象として映らなかったのかもしれません。

さて、農婦たちは午前の仕事を終えて、昼食のために耕耘部へ戻って行くところでした:

「正しくみんな行き過ぎる。
 鐘の方へ歩いて行く。
 この時間のながれのあかるさ」

「鐘(かね)」とは、正午を告げる西洋風の鐘で、《四階建倉庫》の近くの《耕耘部事務所》の前にありました:写真 (ハ)

あたりは、しんと静まって、日の光だけがさんさんと降り注いでいる・農場の昼休みの情景です。
一日の作業が、時間割にしたがって進行する企業式農場では、昼休みには、人も家畜も、家や厩舎の中へ入って昼食をとるので、農場は、しんと静まりかえっているのです。



「ありがたい。
 もう育牛部の畜舎がみえる。
 〔……〕
 から松の緑の列や畑の茶いろ。
 しんとしてゐる。
 日光の底といふものはいつでもしんとしたもんだ。」

じつは、賢治が農婦の一団と行き交うことになったのは、道を間違えたからでした。

. 「小岩井農場」【清書稿】
少し前で(↑杉林道の写真の少し上)、「こんな処を歩いたやうな気がしない。」と言っています。もっと前の「第五綴」2行目では、

「鞍掛が〔…〕あんまり西に偏ってゐる。」

と言っていました。考えごとをしていて、いつも歩いている道から、枝道のほうへ曲がってしまったために(『賢治歩行詩考』p.79)、見える風景が、いつもとは微妙に違うので、なんだか変な感じがしているのです:地図:「狼ノ森付近拡大図」

しかし、農婦たちに時間を尋ねた後で:

「ありがたい。
 もう育牛部の畜舎がみえる。」

「育牛部」の前を通る・いつもの道を見つけることができたのでした:写真 (ホ)
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ