04/10の日記
22:22
流星群、その後
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こんばんは。。
「生きている間はほとんど無名で、死んでから名が高くなった人の場合、その生涯をたどりなおすのは容易ではない。〔…〕推測を重ねてその人生を再構成しなければならない。この作業はしかしおもしろいのだ。人はしばしばこれが作品解釈の上で本当に必要であるか否かを真剣に問うことなく、これに没頭する。」
「作品を読む喜びと謎解きの楽しみを混同してはいけない」
「素人のファンがただ楽しみのために読むのでも、年譜の記載と作品の関係、時代背景、それにテクスト同士の関係などを一通り理解するだけでずいぶん多くの謎を解いたつもりになれるし、その過程を楽しむこともできる。しかしこれは作品そのものを読むのとは少し違うことだ。それに淫しないように気をつけなければならない。
よき作品は書かれた状況などを知らない者にも訴える力を持っているはずなのだ。」
池澤夏樹さんが、↑このように前置きして、最初に取り上げているのは、この日記でも2年ほど前に読みました「暁穹への嫉妬」です:
「 暁穹への嫉妬
薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて、
ひかりけだかくかゞやきながら
その清麗なサファイア風の惑星を
溶かさうとするあけがたのそら
さっきはみちは渚をつたひ
波もねむたくゆれてゐたとき
星はあやしく澄みわたり
過冷な天の水そこで
青い合図(wink)をいくたびいくつも投げてゐた
それなのにいま
(ところがあいつはまん円なもんで
リングもあれば月も七っつもってゐる
第一あんなもの生きてもゐないし
まあ行って見ろごそごそだぞ)と
草刈が云ったとしても
ぼくがあいつを恋するために
このうつくしいあけぞらを
変な顔して 見てゐることは変らない
変らないどこかそんなことなど云はれると
いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる
……雪をかぶったはひびゃくしんと
百の岬がいま明ける
万葉風の青海原よ……
滅びる鳥の種族のやうに
星はもいちどひるがへる」
この作品の“伝記的”な背景は明らかになっていませんから、むしろ私たちは、“謎解き”に淫することなく、まっさらに作品自体を読むことができると言えるかもしれません。(将来の研究の結果、作者宮沢賢治の誰々への恋愛が背景にある、などということが解明されてしまうと、そういうマッサラな読み方はしにくくなってしまうでしょう‥)
テキスト自体を尊重して見てゆくと、
@ 「薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて、ひかりけだかくかゞや」く「あけがたのそら」、「このうつくしいあけぞら」。
A 「清麗なサファイア風の惑星」、それは「過冷な天の水そこで」「あやしく澄みわた」っていたが、いま、「滅びる鳥の種族のやうに‥もいちどひるがへ」って消えようとする。
↑作者は、この2つの“かがやき”の間で思索していることが、まず、目に映ります。
作者の気分は、池澤さんが:
「全体に軽妙で、〔…〕はしゃいだ様子と言ってもいい、」
と書いているように、旅に出た爽快な気分の中で書いている、悩んでいる調子ではない、ということは注意すべきでしょう。
ともかく、池澤さんが:
「話題は土星への恋である。」
と言っているように、作者の「恋」の対象は、「うつくしいあけぞら」ではなく、「サファイア風の惑星」のほうなのです。
ふつうの人ならば、また、旅行者であっても、明け染める太平洋の空を望みながら、まずその美しい夜明けを讃嘆するところです。しかし、ケンヂさんの気持ちは、それ以上に、‥その赤く染まった明けぞらの中で消えようとしている星のほうに強烈にひきつけられている───これは、たいへんに特異なことだと思います。
以前にこの詩を取り上げたときは、この“青い星”を同性の恋愛対象と推定したのでした。ギトンのその考えは、いまも変りません。
しかし、一歩退がって、同性愛かどうかを脇へ置いたとしても、この詩が訴えてくる「サファイア風の」青い星の特異さは少しも損われません。
それは、華々しい美しさとは対極にあって、どこか、一点に集中してゆくような、それを除くすべてを真黒に塗りつぶしてしまうような虚無的な趣がありますが、作者の念頭につねにあったイメージなのだと思います。
旅路にあって、解放された気分だからこそ、こうした“内密”のイメージも、虚空の中央に座を占めて蘇ってくることができるのです。
この作品のこの段階(↑上のテキストは[下書稿手入れ]でして、最初の書き下ろしから1回推敲した段階です)では、
“神秘意識と科学の関係”
ということが、作者のもう一つのテーマになっています。
“宗教と科学の関係”と言ってもいいのですが、“宗教”と言うような──仏教とかキリスト教とか、そういう秩序だった体系にはなっていない個人の信仰というか信仰以前の認識、‥“美意識”と言ってもいいようなものです。
「第一あんなもの生きてもゐないし
まあ行って見ろごそごそだぞ)と
草刈が云ったとしても
ぼくがあいつを恋するために
このうつくしいあけぞらを
変な顔して 見てゐることは変らない]
この・いわば副テーマ、第2主題は、↑このあたりに現れています。
望遠鏡に映る像と科学知識によって、神秘の被いをはずされた「ごそごそ」の物質の塊に過ぎないことが分かっていても、
その星を神秘的にイメージする感覚は、少しも損われないと言っているのです。
池澤さんは、こちらのテーマのほうにより注目しておられるようです。
これを、逆に、第1主題──「サファイア風の惑星」への恋──のほうに照り返すと、とてもだいじなことに思い当たるのではないでしょうか?
科学的に、物質的に見れば、あなたの恋愛対象だって、ただの有機物質の塊──人体と、そこに備わった神経系の活動にすぎないのです。
恋人はウンチもすれば、ゲロを吐き戻すことだってあるし、ほっとけば鼻毛だってどんどん伸びる。それも含めて愛せますか?‥愛せなかったら続きませんよ‥ってことだと思います。
「ごそごそ」は嫌だなどと言っていたら、──プラトニックな純粋さを求めたり、逆に、性愛の快感だけを求めたりし続けたら、──相手を次々に取り替えてゆくほかはないでしょう。
人の汚らわしい癖や営みを意識すればするほど、「サファイア風」の精神性につながる“性”が、‥消えるどころかますます輝きを増してゆくような“愛”こそが、永つづきのする“愛”なんだと思いますね。
それは可能なことだし‥、少なくとも同性の間では十分に可能だと思います(異性愛のことはよく分からないので‥)
ただ、作者の思考は、その手前で足踏みしているようにも感じられます。。。 だとしたら残念なのですが... ともかく、これは簡単にすむことではなく、とても大切なことで、(コトバにしてしまえば、恋人のウンチをどう思うかという単純このうえない話なんですが‥)私たちが繰り返し考えなければならないことなのだと思います‥
さて、「暁穹への嫉妬」はこのくらいにして、先日、中途半端になっていた“飛鳥山の桜”の短歌に戻ってみたいと思います。
ここでも、作者の眼はやはり、ふつう私たちが花見客、あるいは桜を見に来た見物客として愛でるのとは全く異なった角度から、“桜の園”を見ているのです‥
と‥、このあとは明晩に回しませうw
ばいみ〜 ミ彡
...
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