01/06の日記

23:57
紫式部日記8
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完全に引きこもりの正月でしたね。
もう少し活動的になりたいところです。

さて本題。超高速読書、どこまで行けるでしょうか!!

42臨時の祭は賀茂の祭
賀茂の臨時の使い、臨時って言ってるけど毎年ある。十一月の下の酉の日。
内大臣(公季)から使いが来るのは、40にあった左京の馬の件による。「はかなかりしたはぶれわざ」と当日のことを述べる。「ことごとしうこそ」と大事になっているらしいが、その後の顛末は教えてもらえない。大したことではない程度のものであるとの認識であろう。
教通と兼時を壮老の対比。

43師走二九日まで行くと一ヶ月とぶのだが
里から帰参したとのことだが、賀茂祭から下がっていたということか?割と休み多いの?
他の女房が「宮中は」と述べているのだが、この「里」は紫式部の家のことでいいんだよね?
この段階では一条院内裏。
宮中に慣れたことを良くないと思っている割に、40では左京の馬に対して彰子月女房としてのライバル意識、とされてるの、絶対同居しないとは思わないけど、簡単に納得できるかというと「人によらない?」って思っちゃうんだよな……

44宮中で追いはぎ出るって結構治安悪くない?
靫負と小兵部に女蔵人とついてるけど、女蔵人も補任あるの?女房と女蔵人の違いがいまいちわからない。
とりあえず弟を呼べばどうにかなると思ったのに弟がいなかった、くらいの感じで良いのか?
これを読む朝芽のスタンスが、「これは本当に主家礼讃なのか?」なので、これを入れることで一体なんの主家礼讃が行えるのか考えるのだが、現代基準(朝芽の基準)では何も主家礼讃にはならないと思うのだが。

45ある意味でルッキズムの視線的だなとも思うのだが
紫式部の文章結構他者を観察してると言えば言葉は綺麗だけど、めっちゃ好き勝手容姿についていうよね。やはり昔も人は見た目が100%?
正月一日から凶日?と思えば、立春を迎えていないとそれまでは12月に属するらしい。

46容姿コンプレックスでもあったのか?「このついで」って何故そんな簡単に接続させた?
みんな綺麗な人、的な文章なだけいいことなのか、皮肉的と捉えるべきか、わからん。
ここの辺りからそもそも『紫式部日記』の書かれ方が変化しているらしい。
ふくよかが美徳ならば、前段大納言の君に対して「うはべはいとそびやかに」と記すの、なんかおかしいよな。同時に細い(程度等については考慮すべき)に対しても何らかの美徳があったのでは?

47若者の容姿は別段で書くのか…
「若人の中にかたちよしと思へるは」っていうの、若い人の中から任意で抽出してるのもきっと本来は何らかの意味があると思うべきなのだが。
心ばえと見た目と両方兼ね備えたいが、と言う話になっていくが、別にここに上げられた人々も性格に対してdisられているわけではないんだよな。今時の他者に見せないこと前提の日記ではなく、誰かの目が入ることを認識していたならばそんな危ない橋は渡らないか。そうだとするならここに描かれなかった人間にはいい気持ちはしないし、靫負・小兵部はいやな気持になると思うのだが、結局どういう立ち位置の書き物だったのかわからない。

48サロンの比較でわざわざ遠くを選んだのでは?とか邪推をしてしまう
主家礼讃の立場にはいないはずだが、その立場で読んでしまうの、あまりにもバイアスがかかりすぎている。
斎院サロンの話。この時の斎院は選子内親王。『大斎院御集』の人。
事の起こりの中将の君が弟惟規の恋人だったらしい。これ「こんなこと言ってくるやつが恋人なんて弟……」みたいな方だったりしない?そんなんだったら次まで話題引っ張らないか。
内裏後宮とは別に斎院にサロンが拓かれている。むしろ、同等程度の文化資本がある上で人目につかないのであるならば、他者の話題に上ることを嫌がる紫式部にとってはより理想だったとか?羨望。
自分のサロン批判に繋げて行ってるような気もするが、批判とするには擁護が凄い。他者に貶されたくはないということなのか?
上臈・中臈に対して「ものの飾りにはあらず、見苦しとも見はべり」とはパッと考えたら「仕事しろ」だと思うのだが……朝芽は当時の習俗・文化・感覚を知らない……

49何で章段分けた?
書写者が勝手に分けたのか、そもそもそうやって描かれてたのか?考えてもわからないことは考えるだけ無駄なのだけど。
「いと御覧ぜさせまほしう」と、誰かに話しかけている文章なのが気になる。古来からこの辺の言い回しが完全に手紙なので、編纂の段階で手紙が混入したのでは?とあるらしい。
この殿上人が来たらこの女房が対応、みたいのがあるらしいので、やはり誰それ構わず出てきているわけではないらしい。だからこの人は美人みたいな噂が回るんだな……

50有名な清少納言批判
三人の批評をしてるのに結構短くてびっくり。しかし、ホント清少納言だけボロクソなのでずっとネタにされるの納得。
とはいえ、前段で斎院方からの手紙に対して「他の人は目も見知らじ、ものをも聞きとどめじと、思ひあなづらむぞ、またわりなき」としてるのに自分は相手のあずかり知らぬところで一家言を展開しているから、結構自己矛盾を抱えている人だとのイメージになる。
丹波の守→大江匡衡、匡衡衛門→赤染衛門

51クラスにいたらこの人に全部持ってかれるんだろうなって人のイメージになってきた……
「なでふ女が真名書は読む」と、家にいると女房にそんなこと言われる。のはまあイヤだろうけど、すげー「私蔭口こんなこと言われててさー」って感じにそんなに書く?書くか……結構な人はネタにできる蔭口は自慢だもんな……
「くせぐせしく、やさしだち、恥られたてまつる人にも、そばめたてられではべらまし」なんて、自分の基準ではでしかないし、私はみたいな感じで……ここまで読んで思ったけど、朝芽、紫式部苦手なタイプの人間だな????

52自己紹介か?
”こうありたい”は、結局”こうではない”だもんな、と謎の納得をしてしまった。
1052年から末法の世この辺の時代は仏教帰依がしっかりとしていたのは分かってたはずなんだけど、ここにきて「慈悲深うおはする仏」と名詞が出てきて仏教の浸透っぷりを実感。

53装えていると本気で思ってるなら片腹痛い
多分自虐風自慢だとは思うけど、前々段から”女が漢文なんて”みたいな噂を困ってるみたいな事を書いているのに、実際は彰子に『文集』を隠れて教えてるなんて、絶対みんなわかってるよね。読めることをひけらかしてるつもりはないし、こんなに隠れてるじゃない、みたいな感じで書いてあって読んでいて疲れるねこの辺。
一応この辺は、本当は私はこんなことしたくないのにそこになじめない、自分の自制が他者に通じないことに対しての情けなさの表出、と注はするけど、こんな行動しててそれが通じると本気で思ってるとは思い難いのだが……
しかも、「かのもの言ひの内侍は、え聞かざるべし。知りたらば、いかにそしりはべらんものと、すべて世の中ことわざしげく、憂きものにはべりけり」と、勝手に被害妄想してるんだよね。自分で言った基準を数ページで撤回しないでくれが続く。

54出家したい気持ちと逡巡
一説によればこの年紫式部37才。重厄という厄年みたいなものらしい?確かに当時から考えたら大分年寄りだから今までのことを「最近の若者は」ってなるか?にしても、自制が自制にならないのはなんか別の物があるような気がするが?
いい年になったから出家したいが、現世に色々あるし、らしい。

55ここまでの苦手なところ手紙だー!!!
「御文にえ書き続けはべらぬ」とあるから、ここまで手紙(もしくはその体)だー!!まあ、手紙が間違って挿入された、ならば本来はこんなつもりではなかったのに、な舌の根も乾かぬうちに……達が元々入れるつもりが分からなかったから好き勝手いってたになる。まあ、だとしてもそれが贈られた相手がそれを外に出すと思ってないとは思わないので誰かに伝えることが目的だったと思っても有りだと思うが。
ここにその消息文が入った理由の考察いっぱいありそう。

56いつか分からない十一日
中宮の御堂詣。大変盛大。突然差し込まれる十一日に、そもそもこれが何なのかわかっていない。位置的には一月十一日では?って感じだが、「月おぼろにさし出でて」とか「暁がたの風のけはひさへぞ、心ことなる」など秋っぽい。
十一日を誤写と見る寛弘五年五月二十二日の土御門殿での法華三十講結願説がある。本来ここが首巻だったとする。もしくは環濠五年九月敦成親王誕生の記事の暗示説。
なんにせよ分かっていない。

57紫式部、道長の妾説(こじつけ)の元はここ
どれだけ優秀でも父親の愛人が自分の家庭教師やるの嫌だと思うし、そんな相手を早々家庭教師につけないと思う。実例あったらごめんだけど。平安時代の実例知ってたらそれは教えて欲しい。
妾が愛人で良いのかはまた別問題。
そもそも、これ彰子の前でのやりとりなんだよな。「すきものと〜」って歌だけど、歌は見立てることもかのじゃんが朝芽の気持ち。

58「さかしら」って記述するのマジでなんも隠す気なくない?
「宮たち」なので、敦成・敦良の二人。敦良親王については全然書かれてないのが不思議がられてる。
宰相の君、内匠、文屋の博士の三人が記述されるのに、二人は褒めるのに、文屋の博士(文屋時子)に対してだけ「さかしら」って書くとか、他者への目線が分からん。
博士命婦→内侍司の女官。女嬬から選抜されて掌侍(ないしのじょう)につぐ地位を占めるもの。女房の日給の簡(ふだ)を管理してその勤惰を掌握し、文書の発給・儀式の運営にも参与した。(『精選版 日本国語大辞典』)

59何で三日までなんかやってたっぽいのにここ二日なの?
本来は二日に中宮大饗があるっぽい?
「野辺に小松のなかりせば」→野辺に小松のなかりせば千代のためしになにを引かまし(『拾遺集』春・壬生忠岑)の上の句。小松って何?
主家の満ち足りた祝を描くが、上巻の描写とは違い、紫式部の憂愁の念が描かれない。記録とするならこの形になると思うけど……
とは言え人間そんなに一貫した書きぶりっていうのも難しい気がするし……

60二回目だからか描写の省筆が激しいらしい?
また里に下がっている。正月だからかな?
二の宮→敦良親王
もしかして紫式部が自分の着ている物のことを記述するの初めてでは?
敦成親王の五十日の祝に比べて、主家の人々の動きの記述が少ない。先行研究では『紫式部日記』で敦成と敦良の記述の差がありすぎることが結構気になるようだ。道長が持ちを口に向かえたのに道長の喜びようがないのは前の章段で喜びようを記述したから省筆した説もあるが、ここまで結構何度も書いてるのにそれ突然減らす?二人目だから、だとするには道長自身が弟だというのがあるが?みたいな気もする。


おわたあああああああああああああああああ!!!無事!!!大河ドラマに間に合たよ!!!
疲れた……
これを読んだことにより、今年の大河見るのかな……って気力が減っちゃったよ()
カテゴリ: 紫式部日記

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