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下弦の月[2]


最初こそ新鮮で、至上の幸福と引き換え、と呼べるほどの遊びだったが、双子の交換は、
やがて砂月にとって負担となった。
“那月”としてのひとときは儚く、所詮自分は、那月の仮面を被っただけの砂月にすぎない。
結局はただの、那月のお荷物だ。
交換からまた年月が経ち、今日を境に、双子の交換をやめようと、砂月は那月に告げようと思った。
ヴァイオリンの教室から那月が帰ってきて、部屋に戻るのを待った。

「那月…?」

しかしその日、自室のドアを開けた那月は、魂の抜けた顔をしていた。
ヴァイオリンの教室の後は、いつも嬉々としているのに。

「さっちゃん……ぼく…」

青ざめた那月の声が震え、ふらふらと力なく、砂月に近づいてきた。床に膝をつき、崩れる。
何かあったのか、とこちらが動揺してしまうほど、尋常じゃない様子だった。

「那月……どうしたの…?」
「……僕の…『砂月』……」
「え?」

ぼくの砂月?何を言い出すのだろう、那月は。
何度か問いかけるのだが、それ以上、那月は何も言わず、言葉を発さない代わりに、留まることを知らない涙を、
流し続けていた。

後に聞いたことだが、『砂月』とは砂月のことではなく、那月の作った曲のタイトルだった。
その頃、那月は少年ながら、著しい演奏の上達と才能の開花で、一流の音楽家としての将来をも、約束されるようになった。
作曲もするようになって、書棚には、那月の書いた譜面をファイリングしたものが、綺麗に並べられている。
那月の成長はすべて、ヴァイオリンの講師のおかげだと言っていい。女の講師だった。

「先生のために、曲を作ってきたの。みんなには、内緒。大好きな先生のために、聞かせてあげるね」

那月は砂月を演じることは出来ても、本心から人を疑う、といった、世の中を渡る上では、皮肉にも、
必要不可欠な弄れた能力を、持ち合わせてはいなかったのだ。
結果、女の講師は、那月の純粋無垢な子供心を利用し、那月の作った曲を、いとも簡単に奪い取った。
自分の曲に、してしまったのだ。

「さっちゃん……」

那月は、弓をぐっと握り締め、ヴァイオリンの弦をひこうとした。

「怖いよ……」
「………」
「怖くて、弾けない…よ…っ」

那月の初めての、物事に対しての拒絶だった。
ヴァイオリンを手放したい。そう言い出した。

「父さんと母さんは…悲しむだろうな」
「………」

那月には、両親の期待を裏切ってまで、自分の意志を貫き通す勇気はまだなかった。
繊細でガラス細工の心を持った那月では、周囲の批難の目に太刀打ちできないだろう。
那月では。否、もし砂月なら。

「なあ、那月。眼鏡、貸してくれないか?」
「え?」

那月が目をぱちくりさせる。砂月は、那月の肩を掴んで向き合った。

「俺が、那月になって、ヴァイオリンをやめてきてやる」

どちらかがとちらかのお荷物ではないのだと、証明したい。
砂月が那月を欲しているだけではだめだ。那月にも、砂月を欲してもらわないと。

「さっちゃん…ごめんね…」
「こういう時くらいしか、借りを返せないから」

本当は、そんな可愛げのある理由ではなかったかもしれない。

「さっちゃんは、強いね。すごく羨ましい…」

俺はお前が羨ましいよ、那月。
砂月は那月に変身し、部屋を出ると、立ち止まって精神統一した。
このあと、那月以外の誰かの目に触れたら、もう自分は、“那月”でなければならないからだ。

「なっちゃん、今なんて?」

両親にこんな顔を、那月はさせたことがなかっただろう。

「お父さん、お母さん、ごめんなさい…」
「そんな藪から棒に…」
「ごめんなさい…」

那月はこうして、ヴァイオリンを手放した。それは大きな変化だった。
たとえ“もう一人の那月”が決断してくれたことにせよ、那月の音楽人生を、激しく揺さぶった。
そしてそれは、砂月の人生にも影響をもたらした。
双子は常に一緒だった。遊戯も、学校も、習い事も。
この日を境に、那月と砂月は、別々の楽器を手にすることになる。

「那月、それは…」
「ヴィオラ。ふふ、素敵でしょう?」

那月は新たな一歩として、ヴィオラを始めた。
那月が弦楽器を手にすることは、二度とないだろうと思っていたらしく、両親はこれを、大いに喜んだ。
ヴィオラに変えた当初、那月のはしゃぐ姿を久々に目にした。

「さっちゃん、アンサンブルなんてどうですか?」
「いいな」

暇さえあれば、二人で演奏した。
那月の演奏は、優しさに物哀しさが加わり、ますます味が出てきた。
一方、砂月の演奏にも、荒々しさに、色っぽさが交わる。
周りの人間が、この双子にいかなる優劣をつけようとも、この演奏のひとときだけは、砂月は、
自分の個性が神に認められたような気がしていた。

「なあ、那月」
「なに、さっちゃん」

この兄に対してだけは、自分は、汚れのない人間でありたいと願った。

「歳くってもさ、こんなふうに、演奏できたらいいな…」

なんて、と照れくささを、笑いながら誤魔化してみると、那月は至極嬉しそうにした。

「さっちゃんが、そんなふうに笑ってくれて嬉しいなあ…」
「え?」
「ずっと哀しい顔をしていたから。今、さっちゃんは、とても穏やかな気持ちなんだよね。外の小鳥さんみたいに、
楽しそうに、歌っている」

お前の弟でよかった。
優しい兄と比べられる境遇を恨んだこともあったが、今は本当にそう思える。
那月の愛情が感じられるから、まだ、人間らしくいられる。

「僕、プロのヴィオラ奏者になって、いつかステージに立つつもりです…だから、その時は。さっちゃんと演奏したいな」
「………」

那月の眼差しはまっすぐで、心惹かれた。そんな夢、悪くない。

「俺はプロのヴァイオリニストになって、クラッシック界に革命をもたらしてやろうかな…
その時は、那月のステージにも邪魔するか」
「はい、是非」

柄にもなく指切りなんてした。儚い、約束だった。
那月は、その数年後、ヴィオラをあっさりと諦めたのだ。




那月の考えることがわからなくなってきた。
それが大人になるということなのだろうが、砂月の知らないところで、
兄は変わっていった。
極端な変化でもなく、話せばいつも通りなのだが、突然、ヴィオラからも逃げ、こんなことを言い出した。


「今の学校をやめて、早乙女学園を受験します」


早乙女学園。一流のアイドル養成学校だ。
学園長であるシャイニング早乙女は、かつて国民的アイドルだった。

「なっちゃん、本気なの?芸能界なんて…それもアイドルなんて」
「考え直しなさい。せっかく楽器の才能があるのに、もったいない」

両親はもちろん、猛反対だ。
あの臆病な那月がアイドルを目指したがるなんて、今まで多くを共有してきた砂月でさえ、理解し難かった。

「僕はもっと、自由に音楽を表現したい。それは、このクラッシックの世界では、できないんです。
でもアイドルなら…あの人たちの、自由奔放な世界なら、それができると思ったんです」

自由奔放だが、その半面、狂気の世界だ。一歩間違えれば、この世の地獄だろう。


「最後のわがままです。お願い…お父さん、お母さん」


那月が深々と頭を下げる。両親も、砂月も、呆然としてしまった。

「さっちゃん、ごめんね…あの約束は果たせない」
「………」

返す言葉も見つからなかった。
那月と砂月は、互いに目指すものを違えて、気づけば、大分距離をおいていた。

「そのかわり、一流のアイドル歌手になるから…今度は、逃げないから」

那月の目には、希望の光が宿っていた。絶望したのは、砂月。
自分はいつだって、兄の存在を誰よりも意識して生きてきた。
兄の背中を追い、追いつき、それが生き甲斐だったから。それが。

「そう…か……」

ヴァイオリニストになる夢。それはすでに、砕かれた。
その数ヶ月後に、砂月もヴァイオリンを捨てたのだ。

那月は、早乙女学園に見事、入学した。

砂月は、那月と一緒に通っていた学校の単位も危うかったが、ある日、ぷつんと何かが弾け、
ある生徒に大怪我を負わせてしまった。退学だ。
両親にも親戚にも友人にも呆れ果てられて、とうとう、家を追い出された。
都会のアパートだけ用意され、孤独な、フリーター生活を強いられる。

那月はその頃、早乙女学園の寮に入っていて、砂月のそうした事情は、遅れて知ったらしく、
久々に連絡をとった時も、ずいぶん、温度差があった。

だが、その後の連絡は、メールを通して毎日のように来た。
遠くへ行ってしまったかのように思えた那月の、砂月への愛情は、今も昔も変わっていないことに、
砂月は、幾ばかりかほっとした。
闇へ逆戻りの生活だが、あの頃のように、兄のことだけは、いつだって信じていたい。


「さっちゃん!元気だった?」


週に一度、那月はアパートへ遊びに来てくれた。
砂月は生活のために、朝から晩まで週5でバイトをこなし、身も心も疲労していたが、兄のこの訪問は、
唯一の楽しみでも、心の静養でもあった。

「僕、一生懸命作るんだけど、みんな美味しくないって言うんです」
「そりゃあそうだろ。クッキーの隠し味にタバスコなんて、聞いたことねえ」

那月は料理を始めたらしいのだが、その修行の内容は、あまりに酷かった。
この兄にアドバイスをしてやろうと、砂月も料理本を買い、レパートリーを増やしていった。
時には、二人でシチューやカレーを作ったのだ。

「で、早乙女せんせえが、空を飛び回って…」

早乙女学園での日々を、那月は活き活きとした口調で語っていく。
勿論、芸能界の絡んだ学園生活は楽しいことばかりではなく、酷く落ち込んだ顔をして、那月がやってくることもあり、
そんな時は、気のすむまで相談にのってやった。

「僕はどうしてダメなんでしょう…みんなをまとめなきゃならないのに、何だかうまくいかなくて…」
「那月にだって良いところあるだろ。もっと自信持てよ」
「さっちゃんだったら、きっと上手くやれるよね…」

那月にはどうも、砂月に遠慮があるらしく、時折、砂月を引き立ててくる。
否、たぶん、この兄のことだから、そこまで深く考えてない。

良かったじゃん。
大好きな音楽に囲まれて、個性と才能にあふれる仲間と夢を共有して、はしゃいで、苦しんで、
時に助け合って。希望がたくさんあって。

「じゃあ、さっちゃん、また来るね。今日はありがとう」
「ああ、気をつけてな」

俺なんて、こんな、殺風景な場所で目的もなく、金だけ稼いでいるのに。
妬ましいなんて、思わないけど。思わない。
お前だけずるいなんて、思いたくない。
お前が砂月になってしまえばいいなんて…思ってない。


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