栄達の道を驀進する英才誉れ高き鍾士季はその時分、全身に襲い来る強烈な悪寒と身を縛るような重怠さ、そして猛烈な咳と止まらないくしゃみとふらつくような目眩に耐えながら、寝床の中で一人必死に戦っていた。これは聖戦だ、選ばれた人間である自分に課せられた試練なのだ、ならば未来の栄華のためにも己は屈するわけにはいかない、誰であろうと何であろうと自分の輝かしい道を遮ることは許さない……そんなことを、半分以上が真っ白に塗り潰された頭でひたすら考えていた。

思考が中途半端に伝達されていたのか、熱に浮かされながらぶつぶつと何事かをこぼし続けている鍾会に、その傍らで桃の皮を剥いていた彼の妻は、それはそれは呆れたように深く息を吐いたのだった。


鍾士季、元服してから初の、いわゆる『風邪っぴき』であった。




「掛布を寝相で蹴り上げてお腹を出して寝て、それで体調を崩されるなんて、子供じゃあるまいし……」
「誰が子供だ、誰がっ……!選ばれた人間たるこの私にそのような無礼なことを言うなど、お前はそれでも私のつ、まっ、ごっほごほ、ごふっ、げふっ……!」
「はいはい、申し訳ありません。わかりましたから、口をお閉じになさいませ」

呆れたように軽くあしらわれ、矜持の塊のような男である鍾会は歯噛みをする思いだったが、意志とは真逆に身体は怠く、重く、言うことを聞かない。この私の手足であるくせに私の命に従わぬとは何と腹立たしい……と回らぬ頭で無茶苦茶なことを考えながら、勢いで振り上げた片手を下ろした。下ろした、というよりも、それは落ちたと表現する方がよほど正しいような、ばたんと乱暴で乱雑な下げ方だった。ほんの少し気を抜いただけで、疲れた腕が呆気なく寝台に転がったのだ。よほど苦しんでいることが、その些細な動作からでも窺える。

「だいたい、この私が病に臥せるなどあってはならないことだ……きっと、私の才を妬む無能どもが呪いでも飛ばしたに違いない……ああ、きっとそうだ、これだから愚か者は救えない、恨むなら自分の凡庸さを恨むべきだろう……」
「まったく、もう。お口を閉じなさいと申しておりますのに」

それでも、辛うじて動く唇で延々と的外れな呪詛の言葉を紡ぎ続ける夫に、とことん呆れたような顔をして、彼の妻は皮剥きに使っていた小刀を傍らの小机に置いた。膝に置いていた手拭きで濡れた両手を拭い、そのまま今度は机の上に置いておいた、食べやすい大きさに切った桃の盛られた小皿を取る。楊枝も摘み上げ、寝台へと向き直った。

「はい、剥けましたよ」
「……」

その声に臥したまま鍾会が重たげな視線を遣れば、己が妻が楊枝に刺した瑞々しい桃の果肉をこちらへと向けていた。
……恐らく、食べさせてくれるつもりなのだろう。何と言っても自分は起き上がるのも骨が折れるといった有様なのだから。そんな妻の心遣いはすぐさま理解できた。
だが意地が邪魔をする。『この私が、そのようなみっともない真似を晒すのは沽券に関わる……』と、発熱で常よりさらに思考が明後日の方向へと飛んでいっているくせに、妙なところで冷静に恥を覚える自分がいた。

……が。結局は病人だ。
そんな意固地も、ほんの数瞬の逡巡の間にぐずぐずに崩れていき、頭も体も痛いわ重いわ怠いわで、何もかもがどうでもよくなり、鍾会は促されるまま口を開けた。


彼の妻はよく心得ており、夫が開いた口にちょうど放り込める大きさに桃を切っていたので、心持ち小さかった鍾会の開口でも、詰まることも唇にぶつかることもなく、実は吸い込まれるように咥内に入っていった。
その瞬間、発熱でさらに温度を上げていた鍾会の口の中に心地好い冷たさが広がった。柔らかいそれは噛まずとも上顎と舌で挟むだけで簡単に潰れ、たっぷりと蓄えていた冷えた果汁を口いっぱいに広げた。五感の鈍くなった今の状態では味の良し悪しは判然としなかったが、柔らかい果肉と芳醇な果汁が咥内を冷やし、そのまま喉へと滑り落ちていく感覚は得も言われぬほどの快さだった。

嚥下し、鍾会は思わず息をつく。火照った体内を柔らかな冷たさがゆっくりと下っていく心地良さに、うっとりとした溜め息を漏らすことは、今の鍾会には堪えられるものではなかった。意志と身体が合致していないのだから。

「……美味い」

なので、普段ならば山ほど回りくどい言葉を重ねてからでないと伝えられない褒め言葉も、彼にしては驚くほどすんなりとこぼれ出ていた。
夫の賞賛に、妻はそっと唇の端を持ち上げ微笑を浮かべたのだった。

「それはようございました。うふふ。食べやすいようにと、うんと冷やしておいたのですよ」
「ふん……私のため、だろう?」
「あなた以外に、他に床に臥すほど参っている者がおりますか?」

しれっと言い返されて、可愛くないやつめと憎まれ口を叩きながらも鍾会は目線をそらし、再び口を開いた。
その無言のままの促しに、妻はさらに微笑んで、小皿に盛られた果肉にまた楊枝を刺したのだった。






桃の実の半分と少しほどを腹に収めた辺りで、鍾会はもう良いと首を振った。元々食欲は欠片もなくなっている状態だ。無理をして食べていたわけではないが、これ以上は入らない。
鍾会の意思表示に彼の妻は素早く小皿を下げた。それから夫の額に右手を当てた。その手は雪のように冷たく、柔らかく、しっとりと吸い付くようで、鍾会は自然と目を細めていた。


「ん……まだ熱いですね。お白湯とお薬を用意いたしますから、それを飲んだら、今日はこのままお休みになってください」

言って、妻は腰を上げた。心地好い滑らかな手の平が離れていく。それがどうにも堪え難く感じられて、気がつけば鍾会はのろのろと腕を動かし、その白く細い手首を掴んでいた。
妻の動きが止まる。

「あなた?」
「いい。後でで、構わない……」
「ですけれど……」
「いいから」

そばで、こうしていろ。

浮遊的な視線を投げかけ、鍾会の腕は妻の右手を再び自分の顔へと導いていく。常ならば陶磁器のように白々とした頬は今は熱に赤く火照り、その痛々しさにさすがにちくりと胸を刺された妻だった。
仕方なく、寝台の横に寄せていた小椅子に再び腰を落ち着け、彼女は夫の頬に優しく手を当てた。妻が座ったことに満足した鍾会の手が、またばたんと勢いよく落ちる。同時にその切れ長の目の瞼も半分ほど落ちた。

柔らかく冷たい妻の肌が心地好い。無意識に顔をこすりつけるようにして、鍾会はそのまま目を閉じた。


間もなくして静かな寝息を漏らし始めた鍾会に、彼の妻は苦笑しながら片手で夫が掛布から出しっぱなしにしたままの腕をきちんと収めてやった。体を冷やさないようにと、肩口までをしっかりと覆うように布団を引き寄せて。


「……ずいぶんと甘えたですこと」


ほろ苦い笑みを浮かべながら、次に彼が目を覚ます時まで、彼の妻は夫のすぐ傍らに控え、その頬をずっと優しく撫でていったのだった。










(ふん。しかし、私のためにわざわざ桃を買いに行ったとは。お前もなかなか可愛いところがあるじゃないか。まあ?選ばれた才能溢れる輝きに満ちたこの私のためだ、それも当然と言えば当然だが!)
(違いますよ?あれはお見舞いに貰った品です)
(見舞いだと?)
(ええ。トウ艾殿から、あなたへと)
(ぶっ……!なっ、あ、あの旧式から、だと……!?)
(またそのように失礼な言い方をして……)
(ええい、うるさい!お、お前、この私にトウ艾殿からの桃を食わせたというのかっ!?)
(ええ、せっかくの頂き物ですし、とっても美味しそうでしたし。食べない方が失礼でしょう?)
(やかましい!)
(何を怒ることがありましょう。桃にもトウ艾殿にも、何の罪もないといいますのに)
(だ、ま、れぇえええええぇ!)





拍手御礼・鍾会夢






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