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目の前にいる武市の姿を見て、No nameは無意識のうちに身体が拒否反応を示していることに気がついた。
その証拠に、腕に鳥肌が立っている。
No nameは腕を組み、かすかに震えている自身の身体を何とかして抑えようとしていた。
「…あの話、考えて頂けましたかな?」
No nameの顔を舐めまわすように見つめながら武市が言う。
この男の発言が自分に向けられているというだけでもNo nameは身の毛がよだった。
自分が拒絶していることを武市に悟られないように、No nameは俯きながら答えた。
「…何の話でしょうか」
「何って…ほら、私と愛人関係にならないかという話ですよ」
顔を少しニヤつかせながら武市は言った。まるで、No nameが嫌がっているのを分かった上で追い打ちをかけるようだ。
「悪いようにはしませんよ?何度も言ったと思うんですがね」
「…何度言われても…私の気持ちは変わりません。…お断りします」
「何をそんなに頑なになる必要があるんですか?」
これも毎度のことだった。
No nameが何度断っても、その返答を武市は受け入れようとしなかった。
それどころか、その方法がますますエスカレートしてくる。最初は遠回りにアプローチを掛けてきたのだが、No nameが拒否するたびにさまざまな隙を狙ってNo nameに近づいてくるのだ。
「…君は晋助殿の隣にいるにはもったいない人材だと思うんです。私の隣りにいてこそ相応しい」
No nameが黙っていると、武市はそんなNo nameの様子も構うことなくそう続けるのだ。
No nameは叫びだしたくなった。
今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。目の前にいる武市の姿を突き飛ばして、高杉の元へ助けを求めに行きたかった。
けれど、No nameにはそれができなかった。
なぜなら、今目の前にいるこの男が、高杉の企てる作戦に必要な男であることをNo nameなりに理解しているつもりだったからだ。それに、No nameの勝手ないざこざに高杉を巻き込みたくなかったからだ。
「…おや?どうしましたか?」
No nameがなおも答えずうつむいたままでいると、武市が突然No nameの肩を掴んだ。
「……っ」
No nameは思わず声にならない悲鳴をあげていた。武市に対する嫌悪感がかつてないほど膨れ上がった瞬間だった。振りほどこうにも強めの力が込められていて簡単に逃げ出すことができない。
このまま武市を突き飛ばしてこの場から逃げようと次の行動に出ようとした瞬間、武市の後方から声がした。
「あーいたいた。武市先輩。晋助様が呼んでるっス。こっちに……」
No nameははっとして声のした方へ振り向くと、そこには来島また子が立っていた。
また子はNo nameと武市を見比べて怪訝そうな顔をした。
「…って何してんスか?こんなところで」
また子のその声で、武市のNo nameの肩を掴む力が一瞬緩んだ。No nameは我に返り、武市の手を振りほどいてその場から逃げ出した。
「あっNo name…!……。なんなんスか…いったい…」
また子に呼びとめられたが、No nameは振りかえることができなかった。武市と視線が交わることをただ恐れていたのだ。
そんなNo nameの後ろ姿を武市は妖しい目で見つめていた。
*
それから数日が経ったころ、決定的な出来事が起こった。
No nameが仕事を終えて自身の部屋に帰ろうとしていると、唐突に後方から腕を掴まれ近くの部屋に引きずり込まれた。
何が起こったのかを考える余裕はなかった。それよりも先に恐怖がNo nameに降りかかってきた。振り返れば、そこには武市がいたからである。
「な…っ!?」
No nameは悲鳴を上げようとするが、武市が先手を打ち、No nameの腕を掴んでいる方とは逆の手でNo nameの口を覆い隠し、妖しい笑いを浮かべて言った。
「…どうして逃げるんです?」
「……!」
「私はただ事を穏便に済ませたいだけなのですよ。その為に例の提案をしているのであって、あなたが拒否をしたところで得になることは何もない。…お分かりですね?」
No nameの背筋に悪寒が走った。
これ以上言わせるなと武市の目が物語っている。
No nameは武市と目を合わさないようにし、懸命に首を横に振った。
「…ほう。この期に及んでまだ拒否し続けると言うのですか?」
武市の返答にNo nameは今度は首を縦に振った。すると、今まで微かに微笑んでいた武市の表情から笑みが消えた。
「…なら、仕方ないですね」
そう言うと、武市はNo nameの口を覆っていた手を離し、No nameが身動きを取れないように肩を掴む手に力を込めた。
No nameは本能で身の危険を察知した。
対抗したいところではあるが、いくら攘夷志士の仲間だからとはいっても、女の力などたかが知れている。おまけに相手も攘夷志士の一角を担っている男なのだ。
No nameの力が叶うはずがなかった。
No nameは恐怖で目を閉じていた。もうどうにもならないと思った。
「…何してんだ?テメェは」
だから、突然扉の方から聞こえてきた聞きなれた凛とした声にNo nameは、自身の耳を疑った。
─幻覚なのだろうか。
しかし、そう思う一方で反射的に声の方へ振り返っていた。
そこには高杉が立っていた。
「晋助…っ」
恐怖で委縮していたNo nameの身体が急に力を取り戻したようだった。
No nameは思わず叫んでいた。
武市も驚いたようで、ぎょっとした顔つきから途端に焦りだした。
「…晋助殿…どうしてここに…」
「…質問してんのは俺の方だ。…テメェは今ここで何をしようとしている?」
「あぁ…それは…少しNo name殿に用事があったもので…」
武市は見るからに焦っていた。
その証拠に先ほどまでの威勢はすっかり影をひそめ、今はしどろもどろになっている。
「ほぉー?用事ねェ…それじゃあその用事の内容とやらを俺にも聞かせてもらおうか?」
「…あ、いや…あの…そんな大した用事じゃないんで…また今度でもっ」
そう言うと、武市は逃げるように部屋から飛び出していこうとする。
あまりに一瞬の出来事で、No nameは何が起こったのかが理解できなかった。しかし、気がつけば高杉がいつも腰に携えている彼の刀の刃先を武市の方へ向けていた。
「…人の女に手ェ出してんじゃねーよ。次やったら容赦なくたたき斬る」
「…もうしません」
あれだけ、No nameと二人でいるときは優位に立っていたのに高杉を前にするとその威厳は微塵も感じられなかった。武市はNo nameの方は見向きもせず、部屋からそそくさと退散した。
No nameは途端に緊張の糸がほぐれ、その場に倒れこみそうになった。しかし、その寸前で高杉の片腕に支えられた。
「…大丈夫か?」
そう問いかける高杉の声はいつもNo nameと二人でいるときのものへと変化していた。
その声を聞くだけで安心できた。
「…助けに来てくれて…ありがとう…」
No nameがそう言うと、高杉は支えていた腕とは逆の腕でNo nameの肩を抱き寄せた。高杉に抱きしめられると、安心と同時に申し訳ない気持ちもわき上がってきた。
「…ごめんなさい…私」
「なんで謝ってんだ」
「…だって…拒めなかった」
「手ェ出されたのか?」
その質問にNo nameは首を横に振った。
「…手は出されてない…だけど…肩にも腕にも触られたりして…」
No nameはその場面を思い返した。そのせいで引きかけた恐怖が再びわき上がり、身体が震え始めた。
高杉はそんなNo nameをじっと見つめた後、No nameの顎先をつまみあげた。
No nameがリアクションする暇などなく、高杉は自身の唇でNo nameの唇を覆った。
そしてそれはやがて深いものへと変わっていく。
不思議なもので、高杉に突然そういうことをされても恐怖などまるで感じなかった。むしろ震えがみるみるうちに収まり、恐怖から安心感へ変化しているのが分かる。
しばらくして高杉は唇を離して言った。
「お前は謝る必要なんてねェよ」
「…え」
「…襲われそうになってた自分の女を責め立てるようなバカな真似はしねェ…けど、どうして今まで言わなかった?」
「…言わなかったんじゃなくて…言えなかった…」
No nameがそう言い返すと高杉は何も言わず見つめ返してきた。
その視線がなぜだと問うている。
「……」
「…言えば、晋助に余計な心配を掛けると思ったから…大事な計画企ててるのも知ってたから邪魔したくなかった…!それに…あの人は晋助が計画を成功させるために必要な人材だって分かってたから…私なんかのために二人の関係に変な亀裂が入るのも嫌だったの」
No nameの長い理由を聞き、高杉は鼻で笑った。
「…くだらねェ」
「えっ」
「…計画は確かに大事だが…そんなことよりNo nameが他の奴に傷つけられることの方が俺にとっては問題なんだよ」
─あぁ…やっぱり私はこの人が好きだ。
No nameは改めてそう思った。
そう思ったら止まらなくなった。
気がつけば、高杉の名を呼んでいた。
「…晋助…」
「ん?」
「…好き」
No nameがそう言うと、高杉はふっと笑って続けた。
「…んなことわざわざ言う必要ねェよ。分かってる」
囁くようにそう言った高杉はNo nameにもう一度キスをしようと顔を近づける。
No nameもそれに応えようと高杉の顔へ自分の顔を近づける。お互いの唇が触れそうになる寸前で高杉がふと思い出したように頭を止めた。
「…え…何…?」
No nameが不思議そうな顔をして上目遣いに高杉を見ると高杉は悪戯っぽい笑いを浮かべて言った。
「…まァでも…強いて言うなら一つ気にいらねェとこもあるんだけどな」
「えっ!?な…何…?」
No nameが慌てて聞き返すと、高杉は唇ではなくNo nameの額に自身の額をコツンとぶつけて言った。
「…一人で抱え込んじまって、俺にすぐ頼らねェところ」
(俺はNo nameを離す気なんて毛ほどもねェから…No nameも俺から離れんな)
(…うん)
((2012.11.15))