α-2
□Daybreak
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冬の夜明けは遅い。
空はまだ濃い群青が多勢を占めており、星の姿こそ見えなかったが、街は気怠い微睡みの中に沈んでいる。空気は肌に痛かったが、名にとってはその凛とした冷たさが背筋を伸ばしてくれるようだった。
部屋を出る前、名はナルに
“今から向かいます。”
とだけメールを打つ。すぐに返信が返ってきた。
“こちらに合流すること。”
短い文章はいつものこと。
名は了解、とだけ返して駅へ向かって駆け出した。
微睡みの中にあるようでも、街の機能は時間に忠実に廻っているものだ。ちょうど始発は動き出していたので、新宿方面の電車に駆け込む。ホテルに近い出口から外に出ると、正面の道路に見慣れたバンが停車していた。
駆け寄ると、助手席に乗ったナルの口が“早く乗れ”と動いているのが見える。微苦笑して荷室のドアを開けて開いたスペースに身体をしまい込んだ。本来機材が載っているはずのラックには複数の段ボール箱が詰められている。もしかしなくとも、この中身はナルとリンが徹夜で作業した人形に違いない。
緑稜高校に到着するまでの約3時間、会話らしい会話はなかった。
到着した学校は完璧に人の気配が絶えて静寂が降りていたが、人の聴覚とは別の領域には高らかに怨嗟の歌が鳴り響いている。僅かな旋律のズレから、幸いにもまだ勝者は決定していないらしとわかった。
それぞれに荷物を抱えて体育館へと歩く。体育館に人形を並べて呪詛返しの準備を終える頃には登校の時刻になるだろう。生徒がいては、意味がない。名は前を歩くナルに訊いた。
『そういえば、今日は生徒は?』
「臨時休校にしてもらっている。」
そう、と返事をし、箱が奏でるカタカタという音に耳を寄せる。
これが成功しなければ、箱の中身と同じだけの人達が傷つく事になる。
“絶対に、失敗しない。”
名は心の中で何度も繰り返した。
体育館の床に整然と人形が並べられていく。名は体育館の四方の壁に護符を貼っていた。ただし、一面に貼られる護符の枚数は通常より格段に多い。それが一階部分と、階段を上った二階のギャラリー部分。更に、式紙を飛ばして天井にも護符が貼られた。
その枚数の多さに、ナルが驚いたように周囲をぐるりと見回して呟く。
「すごい数だな。」
残りの護符を手に、貼り方にムラがないかを確認していた名は、真剣な表情のまま頷いた。
『それは、勿論。絶対にここから出すわけにはいかないし。この結界は保険だもの。機能しなくちゃ、意味がないじゃない。』
そう、保険だ。
万が一、呪詛の力が分散されずに暴走した場合、体育館内で決着をつけなくてはならない。可能性としてかなり低いが、場合によってはここで霊を滅しなくてはならないだろう。
ナルは名にそこまでを求めてはいないけれど、放ってはおけないから。
だから、名はまた、主を喚ぶのだ。
人形を並べ終え、名も護符を貼り終えて、異様な雰囲気となった空間を三人それぞれに眺める。
『ナル、先に生徒会室に行っていてくれない?』
ナルの方は見ずに、名が言った。ナルはその言葉の意味するところを悟り、チリ、と鳩尾が灼けつくのを感じる。けれど、敢えて理由を問うことはしなかった。
何も言わずに背を向ける。大きな空洞にナルの小さな足音がやたら響いた。
重い金属音を立てて、大きなドアが閉められる。
名はいつの間にか俯いていた。
「・・・名。」
上から降ってきた気遣わしげな声にはっとして顔を上げると、声と同じ眼をしたリンがこちらを見ている。
名は笑む。
『すみません。
リンさんも疲れているのに−−−、』
全てを言う前に、リンの掌が言葉を遮った。
「良いんですよ。言わずとも分かっています。
私はそのためにもいるのですから。」
大きな手が、唇の上を滑って頬へ添えられる。優しい眼差しを名に注いだ。
『・・・ありがとうございます・・・。』
名は頬の上に載る温かな掌に自分の掌を重ね、瞑目して呟く。リンを利用する事を決め、力を使い欲することを躊躇するまいと決意したにも関わらず、彼の瞳を正面から見つめ返すことが出来なかった。
閉じた目蓋の裏に棲みつく真っ暗な闇は夜光虫のような光の明滅を飼い慣らし、目を合わせず闇に逃げた己の情けなさを言外に責め、あるいは揶揄っているかのようで。
名は瞑目したままそっと手を取り、そこに口付けるようにして主を喚んだ。
『−−−龍神様。』
朱い唇から紡がれた言葉は、不思議に耳に甘く響く。
『龍神様、
お力をお貸しください−−−。』
柔く握っていたリンの手がスルリと抜け、再び名の頬を包む。鼓動が一際大きくなる。それは主がリンへと降りた証だった。
「娘よ−−−。
我の、愛しい娘。」
至近で聞こえるその声は、鼓膜よりも細胞が震えるように名の身体に重く低く響く。
「お前が我を喚ぶ声の、なんと甘く優美なことか・・・。
さあ、美しいその顔を上げるがいい。」
リンは−−−龍神は、頬に添えた手に僅かに力をこめて名の顔を上向かせた。
名の金を帯びた瞳の中に、泰然としたリンの顔が映り込む。
「・・・力が欲しいのだろう?
気に病む必要はない。
お前は我のもの。我の力はお前のモノだ。
−−−愛しい娘よ。」
切なげに細められた瞳は熱を孕んで、身体に響く声も蓄積された思慕の想いに焦がれて熱い。
気の遠くなるような長い時を待ち続けている主の声が、名の心に爪を立てた。
名の唇に龍神は口付けを落とす。
心の底から愛おしい、そう言っているような所作だった。
頬に添えられていた手が名の身体を優しく包む。
「愛しい娘。
早く、お前をこの腕に−−−。」
龍神は名を抱く腕に力をこめて、唐突にリンの身体を解放した。
『・・・龍神様・・・。』
名は主から与えられた力が血脈に乗って全身を巡るのを感じながら、主の言葉を思い返す。
龍神は実体を持たない。
自分を抱きしめる腕は、依代である人間のものだ。けれど、主の言葉は、主自身の腕の中に、という強い思いがこめられていたように思える。
あの切ない声が、瞳が、何よりの証拠に違いなかった。
「・・・名?」
困惑した声が名を呼ぶ。
今は考えても仕方がない。
緩く頭を振ってから、名はリンを見上げて微笑んだ。
「大丈夫ですか?」
未だ困惑したように様子を窺っているリンに、名は躊躇いがちに笑みをこぼした。
『それ、私の台詞なのに。
はい、しっかりチャージさせていただきました。リンさんこそ、大丈夫ですか?』
「ええ。」
言って、リンは腕を解く。
「−−−行きましょう。」
力強い眼に促され、名はリンに続いて体育館を後にした。
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