α-2

□A Sin
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途切れた意識が、ゆっくりと響く低い心音に引き寄せられる。

身体に感覚が戻るのに、そう時間はかからなかった。
頬に当たる、冷たくて硬い破片と床の感触。
背中に掛かる僅かな重みと温かさ。

頭上で、色んな人の声が聞こえる。
自分の名前を呼ぶ声だ。

「・・・・・・名、大丈夫ですか。」

ふっと背中に掛かっていた重みが軽くなって、近い距離から訊かれた。

『−−−大丈夫、です。』

どうやら凶悪に成長した保健室の霊は、床を落としただけでなく、部屋全体の天井まで落とすに至ったようだ。咄嗟にリンが覆い被さる風にして庇ってくれなかったら、今の自分では体勢を整えることも出来ずに大なり小なり怪我を負っていたことだろう。
未だぐらぐらと揺れる頭を何とか叱咤して、現状を把握しようと顔を上げた。盾になってくれたリンを見上げて礼を言う。

『リンさん、ありがとうございました。背中、大丈夫ですか?』

パラパラと何かの破片を落としながらリンが名の上から身体を退かし、彼女の問いに薄く笑んで応える。そしてそのまま名の身体を姫抱きに持ち上げ、上に待ちかまえていたぼーさんへと身柄を託した。廊下の床に座らされた名の側に安原さんが片膝をつく。

「姓さん大丈夫?怪我は?」

『ありません。』

笑みを作ってそう言うと、ホッと安原さんは息を吐いた。横には土岐田さんも心配そうに立っている。
ゆっくり振り返ると、差し伸べたナルの腕を掴んで、リンが出てくるところだった。

「怪我は?」

「擦りむいた程度です。」

服に付いた汚れを払い落としながら平然と答えたリンに、ナルも何でもないことのように頷く。ぼーさんと綾子がドアから少し身を乗り出してハンドライトで保健室の中を照らした。

「何だってこんなことが出来るのよ・・・。」

照らし出されたのは、目を疑うような光景だった。綺麗に壁の形通りに落ちた床。天井に張ってあったボードがそこを覆うように散乱している。土岐田さんも保健室の中を照らしながら呟いた。

「これはいったい・・・・・・。」

「冗談じゃねえぜ・・・。」

ぼーさんが吐き出すように言う。

『−−−蓄え終わったのかも、』
「孵化したんだよ。」

名が言うのと麻衣が呟いたのが重なった。麻衣が確信を得た顔で言葉を続ける。

「今までは眠ってたの。それが力を蓄え終わって孵化したんだよ。
もうどうにも出来ないんだ。」

言い終えて麻衣が名を振り向く。名も同意を示して眼を伏せた。

「いくら何でも手に負えない。−−−学校を閉鎖した方が良い。」

深い溜め息を吐いたナルが土岐田さんを見る。

「土岐田さんも学校を出た方が良いでしょう。夜、ここに留まるのは危険です。」

しかし、と言いさした土岐田さんに安原さんが頷く。それで土岐田さんは分かった、と硬い声で答えた。ぼーさんが呟く。

「しかし、閉鎖に同意するかね、学校側が。」

「この床を見れば、せざるを得ないだろう。多少なりとも分別があるならば。」

そうして、一旦ナルは校長に電話をかけるために土岐田さんとぼーさんと警備員室へと向かった。リンはもう大丈夫だと主張する名を有無をいわさず抱きかかえて、他のメンバーと共に宿直室へと連行する。
そして無理やり布団の中に押し込めて、

「嘘はいけません。取りあえず、もう一回寝て下さい。」

断固とした口調でリンに言い聞かせられ、名は苦笑いを浮かべた。ここまでされてはもう抗いようもないので、名は観念して瞼を閉じた。閉じかけて、パッと見開く。

『保健室にいた霊−−−というか、学校に残っている霊なんですけど。』

突然思い出したかのように話し始めた名に、一様に皆が首を傾げた。

『最初は何かの唄みたいに聞こえてはいたんですけど、雑音が多くて何だか分からなかった・・・。さっき対峙したときには綺麗に調律されて、明確に伝わってくるものがありました。


−−−あれは、この学校の誰かに向けられた、

・・・・・・憎悪と殺意です。』

麻衣が息を詰めたのが雰囲気で分かった。他の皆も飛び出した言葉の強いインパクトに、二の句が継げない。

『−−−多分・・・ううん、高い確率で、蠱毒は意図的に行われたんだと思います。』

言っている名自身、そう思いたくはなかった。
けれど、背筋の凍るあの歌からは、それしか聞こえてこなかったのだ。きっと、この学校の闇が濃いのは、怨嗟の穢れが顕れていたからだろう。

「それならば、呪詛という事になりますね。」

静かに声を挟んだのはリンだった。

「自然に起こったものでないのなら、対処できるかもしれません。」

はっきりとした口調でそう言うと、リンは立ち上がってドアに向かう。

ナルに報告するために。

ドアを閉める直前、少し屈んで名を振り返ったリンは、生真面目な顔をして言った。

「ちゃんと寝ているんですよ。」

ドアの閉まる音がして足音が聞こえなくなると、しんとしていた宿直室にくつくつと忍び笑いが漏れはじめ、それはやがて大笑いへと発展した。

「リンさん、お父さんみたい〜!」

「過保護が過ぎるんじゃありません?」

「ホント、あの仏頂面でよく言うわ。」

呆れたような、微笑ましいような笑い声をジョンも笑顔で聞いていて、安原さんも声を出して笑っている。


束の間の緩んだ時間だった。











翌日、名が目を醒ましたのは昼近くになってからだった。
外傷が治癒するのと、中枢神経系が平常を取り戻すのとでは随分勝手が違ったらしい。目を醒まして時間を確かめた名自身、こんなに長い時間の睡眠を必要としたことに驚いていた。そして、驚いたことがもう一つ。

『・・・・・・この狭い部屋に、なんで難しい顔して集まってるんですか?』

流石に暑苦しい、とまでは言わないが。
いつにもまして欠落した表情のナルがその後の事情を説明してくれたのだが、それを聞いて名は唖然とした。

緊急職員会議を朝までやって出た結論が、“調査を打ち切ってお引き取り下さい”−−−。

「いくら説明しても返答は変わらずだ。」

大きな溜め息と共に、ナルが吐き出すように言った。

『じゃあ、今も生徒が?』

「いや、今日は臨時休校になった。」

それにホッとしたのも束の間、ぼーさんも溜め息をつく。

「どうやら、教師どもは俺たちが何かしたと思ってるらしいんだな。
俺達が下手な手出しをしたから、かえって悪くなってるんじゃねえかと疑ってる感じだったな。どうやら、しばらく様子を見るつもりらしいぜ。」

『・・・・・・そんな、馬鹿な・・・・・・』

答えてくれる人はいない。

「依頼を打ち切られてしまえば、俺達は学校には入れん。どうしようもない。」

ぼーさんの声にナルは唇を噛んだ。

「呪詛ならリンが始末を付けられる。問題は−−−、」

『呪者と方法。』

ナルの言を継いで名が言う。ナルは視線だけで頷いた。

「それが分からないと、有効な手段を選択できない。呪者に返すにしても、返せるかどうかの判断も出来かねるわけだが・・・・・・。」

長い睫毛を伏せるようにして考え込む。しばし沈黙した後、軽く息を吐いて立ち上がった。

「とにかく、もう一度説得に行ってみよう。

−−−名、水鏡は使えるか?」

名はナルを見上げて微笑した。

『勿論。』

ナルが出て行った後、名はゆっくりと身を起こす。起き上がった彼女を期待を込めた目で見つめてくる周囲の者を見回して、少し困ったように眉を下げた。

『あのぅ、ここじゃ狭いので、何処か別の所でやりたいです・・・。』

ああ、と間の抜けた返答がぼーさんから返ってきて、一同は生徒会室で待機する事にした。


「体調は大丈夫なんですね?」

荷物持ちを志願してついてきたリンが抑揚のない声で問う。バンの荷室に上半身を突っ込んで荷物を引っ張り出している名は、そのままの姿勢でクスリと笑った。

『お陰様で充分すぎるくらい休ませて貰えましたから。』

リンの過保護すぎる発言とその後の爆笑を思い出して、つい、笑みが尾を引く。リンは彼女が一人笑っている理由が分からず、怪訝そうに眉を顰めた。


生徒会室に戻ると、難しい顔をした面々が腕を組み、或いは机に突っ伏してうなだれている。
どうやら状況を整理してみよう、という話になったものの、すぐに行き詰まってしまったらしい。

「事件の核心じゃなくても、状況を打開できる何かが分かると良いんだが・・・。」

長机の上に水鏡の準備をしている名は、ぼーさんの言葉にそうですね、と頷いた。

『・・・自信はありますよ。』

小さいけれども、名の声は確かに確固とした矜持が芯にある。
始めます、と滑らかに言葉を吐き出して、名は水を湛えた水盆の上に小刀を構えた。
口の中で含むように祝詞を唱えながら、小刀を握る手に力を込めていく。
粛々と開始された儀式に、教室はピンと糸を張ったような緊張感が漂っている。

「・・・・・・何が、」

始まるのか、と疑問を口にした安原さんを、しっ、と麻衣が口元に指を当てて制した。
言葉を発することも憚られる雰囲気が確かにある。安原さんは質問を諦めて名へと視線を戻した。

鮮やかな朱を吸って、水面は緩やかに規則正しく波紋を作る。揺らいだ水面がぼんやりと色を変えて何かを映し始めた。

それは、誰かの部屋だった。
六畳位の洋間で、机やベッド、オーディオが載った棚、ぎっしりと本が詰め込まれた本棚が見える。
ふと本の背表紙が揺らいで、背文字が拡大されたように一瞬大きくなる。
−−−オカルト、サイキック、高等魔術の教理と祭儀、神秘学概論、憑霊信仰論−−−
きちんと整理された机の上には学生鞄が置いてある。まるでディスプレイしているように正確に机の中央に配されている。その脇にもまた、陳列されたように小物−−−筆箱や手帳、パスケースが置いてあった。
期限の切れた定期券が見える。
そこに印字された名前。

−−−坂内智明・・・。

たぷん、と大きく水面が揺れた。

薄暗い教室に数人が輪を作って座っている。
取り囲んだ机の上に載った数人の手が、紙の上を滑って動く。そのたびに小さな歓声が生徒たちの間から漏れたような気がした。
手が紙の上から離れる。
全体を晒した弧狗裡さんの紙。
それは一般的に良く知られているタイプの弧狗裡さんのものとは違っていた。
五十音があり、数字があり、“はい”と“いいえ”があるところまでは共通している。普通、その中央に鳥居が書かれているわけだが、映し出された紙の上には梵字と漢字、人型のようなマークと格子縞二つが記されている。そしてそれらを取り囲むようにぐるりと“鬼”の字が並んでいた。

「−−−これは、」

リンがカメラのファインダーから視線を外して、珍しく驚きの滲んだ声をあげた。

「どうした?」

ぼーさんが怪訝そうに顔をしかめたのを無視して、安原さんに問い詰めるように身体を向ける。

「この紙が手に入りませんか。」

「・・・みんな、まだ持ってるかな。まあ、生徒を捕まえて脅せば、見本を作って差し出す奴もいると思いますけど。−−−どうしたんですか?」

厳しい表情を浮かべたリンがさらに問う。

「何か呪文のようなものを唱えたりは?」

「ええ、えーとなんだったっけ・・・おー、ヲリキリ−−−・・・」

安原さんが眉間に皺を寄せて記憶を辿り、唱えた呪文の断片に、リンは更に表情を硬くした。

「−−−をん、をりきりてい、めいりてい、めいわやしまれい、そわか・・・。」

安原さんはポンと手を打つ。

「そう、それです!」

「使い終わったらどこかへ埋めるとか。」

「そう、確かそんな事を言ってたな。一回しか使えないんだって。終わったらちゃんと神社に持って行かなきゃならないとか。」

「神社・・・。」

リンは小さく呟くように復唱した後、安原さんを見据える。

「その神社がどこだか分かりますか?」

「詳しくは・・・でも、近くに神社は一つしかないから。」

小刀を長机の上に置いて立ち上がった名が、リンの袖を引いた。

『分かったんですか?』

彼女の質問に強い色の視線だけを返して、リンは安原さんの腕を引きずる勢いで生徒会室を飛び出していく。ぼーさんが、おい、と制止の声をあげたのにリンは振り向きもせず、名も小走りにリンの後を追いながら唖然としているぼーさん達を手招いた。

『行きましょう。答えが見つかるはずです。』

そうして、安原さんを案内に全員で裏ルートから学校を出、一つしかないという神社に向かう。
寂れた雰囲気の漂う小さな神社で、鳥居は黒ずんでいて小さく、お社も屋根瓦が所々ひび割れていたり落ちてしまったりしていた。
リンは真っ直ぐお稲荷さんに近づいて、小さな祠の周りを廻るようにして何かを調べている。

「こちらではない。」

呟いて、今度は奥にあるお社の方に向かった。社は古びて汚れが目立つ。人から忘れられ始めた−−−、そんな寂しい印象が拭えない。
リンは一段高くなった社の床下を覗き込んで、ジョンを呼ぶ。

「ブラウンさん。すみませんが、私では入れない。この床下に入ってみて下さい。」

正面の階段の陰になる部分には、人が入り込めそうなくらいの大きさの穴があいていた。動物が入らないようにだろう、金網が巡らせてあったが、これも古くなって破れている。ジョンは頷いてその中に潜り込んだ。

「−−−紙がありますです。・・・ぎょおさん。」

「一枚でいい、持ってきて下さい。」

直ぐにジョンが這い出てくる。少し咳込みながら、握った紙をリンに差し出した。クシャクシャに丸められた紙を開いて目を見張ったリンは、その紙をみんなにも見えるように掲げて見せる。

「ヲリキリ様の紙で、間違いないですね?」

麻衣とぼーさんは頷いた。

「狂わすには四つ辻・・・。



−−−殺すには宮の下。」

硬く閉ざしたような声と表情でリンは呟き、一同を真正面から見据えて話し始める。

「これは呪符です。神社の下に埋めてあるからには−−−人を呪い殺すためのもの。」

名は静かに瞼を伏せた。耳の奥で、乾ききった砂嵐に似た耳鳴りが聞こえる。

ゆっくり瞼を持ち上げて、リンを視界の正面に据えた。確かめるように見つめれば、揺るぎのない首肯が返ってくる。










入り組んだ複雑な迷路の出口が、やっと見えたのだ。

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