短編ブック

□『匙』
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人間を、他の言葉で表すなら、席がいいだろう。

だってほら、人の座る席は決められていて、その人がどんな人生を送ろうと、大きな目で見るとそれは当人が神様に用意された席の上でやっているだけで、私達の志なんてものはまあ、全くをもって関係ないのである。

それなら、運命なんて言葉でもどうかしら、と言う奴が出てくるかもしれない。
しかしそれではおもしろくもなんともない。
そりゃ、エッセイ集の帯の文句にもならない。
席とは、運命のように流動的なものでなく、ただ用意された椅子がぽつねんと佇んでいるのみである。
運命だと、美しいものでは、ないのだ。ええ。ええ。人生など。

などと、風流物のような頓知で遊んでみたけれど、少しの諧謔心もなかった。
ただ、ばかだ、と恥じた。

どうかしら、と古橋くんに問うと、なにがと短い返事があった。


「貴方から見て、どうかしら。人を表すなら。」


前の席の彼に言葉を掛けると、彼は、面倒でも愉快でもない顔をこちらに向け人間は人間だろう、人間を、表すために人間という言葉がつくられたんだから、と応えた。


「つまらない。貴方、漱石にアイラブユーを月が綺麗ですねと訳されて、いいえ、アイラブユーはあなたを愛してますという意味ですよ、なんて言うのよ。きっと。」


私が貶すも、彼は失礼とも思わない素振りで、つるつると言葉を吐き出した。


「俺はな。お前の言っていることは全て誤解だと思う。けど、お前自体は、正しい答えだと思わせられるんだ。」
「よくわからないわ。」
「畢竟、お前の人生はやっかいだな。ということだ。」


彼はすぐに前を向いてしまった。
読書をしていたらしい。表紙に、『銀の匙』と書いてある。
冊子はポストモダンなデザインで、新橋色の図形のパターンであった。洒落た若者向けの見目だ。
私は作品の雰囲気に合っていない「ハイカラ」だけを求めた大衆向けのそのデザインが気に食わなかった。
目の前の人物に伝えると、それで若い奴が本に興味を持つならいいんじゃないか、と言われた。
私は嫌になった。
彼が嫌いになった。
私は子供である。恥ずかしい。だって、まだ、高校生なのだ。悔しい。
彼も高校生である。だけど、私は、私は。負けたのよ。


「悔しい!」


私ばかりキーキー鳴いて、貴方ばかり落ち着きを払っているわ!
いつも。いつもよ!

彼は私に縋られても鷹揚な態度で見下ろした。
見下ろされた私は立ち上がりこの男を見下ろし返した。


「貴方なら、アイラブユーをどう訳す?」


腰に手を置いた。
彼は『銀の匙』を置いて、代わりに私の手を取った。
彼の手は骨張っていて細いため弱々しく見えていたけど、それに指先を触れられる私の手の方がいくらも不安げだった。
こいつも男ってわけね。畜生。
慮外ぬくもりのある彼の手から熱が伝わってくる。彼の唇は震えた。


「あなたを愛してます。」


いいわ。私は勝てないのね。



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