短編ブック

□コチャタテ
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死のうか、もう死のうか。

彼はそう言って、前を見据えたまま、私の頭を撫でました。
その表情には哀訴嘆願の色など無く、ただ静かに、確かに、声だけが美しく響いたのでした。
私達は二人、寝椅子に腰掛け、テレビを眺めていました。
ドキュメンタリーの、厳粛な、語手さんの低い声が、キリストのモザイク画の歴史を紐解いてゆきます。

そろそろ死のうか。

やはり彼はテレビを眺めながら、私に言いました。
私には、彼が何を思っているのかわかりません。
私は彼と死ぬべきでしょうか、わかりません。


「どうして死にたいの?」


顔を彼に向けると、突然キスをせられました。
しかし、彼の表情は依然として無感動、無感情です。
私は、そういえば喉が渇いたなと思い出し、寝椅子を離れ勝手元に立ちました。
薬缶に火を掛け、戸棚から茶葉を取り出します。私の地元から送られてきた、私の心に適う茶葉です。


「死にたいわけじゃない、ただ、充分生きたと思わないか?」


背中越しに、声がかけられました。
振り向くと、彼がこちらを見つめていました。相も変わらず顔に色の出ないことです。
なるほど確かに、私達は永いこと生きました。死ぬことなく生きました。
富士山の五合目で、疲れたから、もう下りよう、と言うのではなく、完登したのでそろそろ下山しましょう、というのと同質なのです。
つまり、もう畢生存分でございます、ここらで身罷りましょうか、と提案しているのです、彼は。

どうしたものかと、私は一息、はあ、と曖昧に返事して、湯呑を二人分携え寝椅子に戻りました。
内の一つを手渡すと、彼は、骨ばった両手で、湯呑を包み込むように持ち、じい、と中を覗いております。
茶柱が立っています。
今度は私の方から、頬にちゅ、とキスをしてあげます。
彼は緩慢な動作で、湯呑を口に付け、傾けました。
上下する喉仏は美しくございます。私も、同じように飲み干しました。
貴方ご存知かしら、茶柱は、真っ直ぐに、立ち昇る湯気のことなのよ。湯気が一路に昇るほど、家の中の空気が穏やかであることに、主意はあるのです。

フィロパトル海を渡って思うまま
最期にみていた色やさぞかし

おやすみ、ダーリン。



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