短編ブック

□イキモノ
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自転車を漕いでいました。

朝の冷えた空気は、折角大人しくしていたのに私が通ったせいで風になりました。
懐かしい、つい2年前まで毎日のように通っていた中学校の、テニスコートの横を通過します。

何故朝早く、まだ薄暗い今、休日であるにも関わらず制服を身に纏い自転車に跨っているのかというと、単純な話、学校に忘れ物を取りに行っているのです。
数学のプリントが4枚綴りになっているやつです。
午前中に塾の予定があるため、明るくなってないうちに動くことになりますが、朝の景色は嫌いではありません。

辺りの暗さの中にフスフスとたくさんの冷たい水蒸気が別っていて、私の顔、手、首に次々と張り付きます。
そうやって暗い中にいながら私の頭が覚醒します。
湿ったハンドルを握り締め重心を傾け左に曲がると、フェンス越しに中学校の給食室が見えました。
真っ暗な給食室から紫色の不気味な蛍光灯の光が覗き、そういえばこれが好きではなかった、と思い出しました。

黛色の空、青黒い電柱のシルエット、青黒い建築物、青黒い静寂。

私は青と黒に吸収されてしまいました。
青黒いアスファルトの道路の真ん中を、辛うじて銀色を鈍く発する自転車の車体が慣性の法則ですうーっと突っ切ります。まるで自転車の右側と左側が、切り離されているようです。

ちょっとした下り坂が見えてきました。
中学校を過ぎてすぐのその下り坂の先は、大通りが横切る形になっています。
ですから道路に突っ込まないように、ブレーキをかけながら下りて、すぐ歩道に曲がらなければいけません。

私は恐ろしくなってきました。
だって、私の自転車が糸で引っ張られるようにあまりに美しく均等に進むものですから、もしかしたらこのまま引かれるままに、まっすぐ、まっすぐ、坂を下ってもまっすぐと、勤務先に向かう車の大群の中に突っ込むかもしれません。
私のこの使い古した自転車と自動車が衝突すれば、きっと私は負けてしまう。
自転車がくしゃくしゃになる前に、放り出された私は通りかかったトラックに潰されてしまう。
そのトラックは大きくて、私の肉なんてちっぽけで、もしかしたら運転手さんは気付いてもくれないかもしれない。
ああ、私はそこで死ぬんだ。
私が死んでしまったら、クラスの人達や近所の方々は、まるで私なんてものは最初から無かったように忘れてしまうんだ。

ただ、私は、あの人にだけは覚えていて欲しいな、と思いました。

そこで、つん、と鼻の奥に痛みを感じました。
目頭は熱を持ちます。
私の大切な臓器たち全てがズクズクと鼓動を鳴らし、ハンドルを握る手には力が入ります。
しかし自転車は少しも揺らぐことなく母校を通り過ぎました。
課題を取りに行っていたはずが、気付くと自殺をしに行っていました。
自殺をする人というのはこのように、死にたくない、死にたくない、でも死ななきゃ、という風に目をぐるぐるさせながら動くのでしょうか。

私はなんだか可哀想に、申し訳なく感じて、瞼を閉じました。
溜まっていた涙が押し出されます。
私が乗る自転車は相変わらず大人しくアスファルトの上で引かれます。
私は漕ぐのを止めました。
目を伏せて、自転車と同じように大人しくします。勢いを残したまま、自転車が流れるように坂へ向かいます。

下り坂はもう、すぐそこにあるようです。
私はとっくに諦めていました。


「死にたいのか。」


がくん。
突然身体と脳が大きく揺れ、私の目蓋は持ち上がりました。
私は驚きました。青と黒のワタシの中に、生き物が入ってきていたのです。
そして私は悟ります。生き物の本来の姿を。

気付けばガションというけたたましい音と共に自転車が傍らに横たわっていて、私の体は古橋君に抱えられていました。
左の二の腕と右の脇腹に強い痛みを感じます。息が荒く、白い肌に大粒の透明な液を垂れ流す古橋君はコケティッシュな魅力がありました。
古橋くんの体がすぐ傍に有り、彼の心臓が伸縮の音を聞かせてくれます。
古橋君は私をアスファルトの上に降ろすと、一回の深呼吸で荒い息を整えました。
古橋君の汗と息の様子をみると、どうやら彼は学校周りを走ってトレーニングしていたようです。

私は地面に座り込んだ状態のまま、彼を見上げていました。
彼の美しい唇が振動します。


「死にたいのか。」


どこかで聞いた科白です。
頭の片隅に沈んでいったことのあるものです。

今度は私が唇を振動させました。


「死ななきゃいけなかったの。」


どうして、と古橋君が問いかけるので、わからない、と答えます。

私は腰が抜けていました。
手も震えていて、座っている状態を維持するのがやっとです。
古橋君が目の前に背を向けしゃがみ込んだので、懸命に彼の背中に攀じ登りました。
腕の力だけで身をよじる私は傍から見ればさぞ気持ちの悪いことでしょう。
しかし古橋君は機械的に享受してくれました。
ある程度私が背中に張り付いたのを確認すると彼が立ち上がります。

私の自転車を放ったまま、彼は歩を進めました。
ぽつりぽつりと声が聞こえ、彼の背中から振動が伝わってきます。


「木口が、見えたんだ。」
「……。」
「俺は朝、ランニングしていた。」
「…うん。」
「道路につながる坂道に差し掛かるというのに、自転車に乗ったまま気が抜けたように目を閉じるから、」
「……。」
「ひやりとしたよ。」


私は静かに彼の首筋に頬を擦り寄せました。私なりの応えであることにしました。

表情の見えない彼は、私を背負ってどこに向かっているのでしょうか。

私は後ろから腕を伸ばし、手の平を彼の目元に被せました。口を首に寄せ、話しかけます。


「古橋君、私、こわかったよ……。」


彼が小さく溜息を漏らします。
いつの間にか朝焼けが私達を彩っていました。

美しい日でした。



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