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□君影草(ss)
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『幸福が戻る』
それが、鈴蘭の花言葉だという。
どうして、『来る』ではなく『戻る』なのだろう。
いつだったかそう思ったことを、私は今も覚えている。


コーヒー豆をフィルターに入れ、お湯を湿らす程度に注ぐ。ぱちぱちっと、豆とお湯が合わさる音がした。
一旦それをカウンターに置き、数分蒸らす。香り高い湯気が鼻孔をくすぐる。

彼はブラックが好きだった。


ちらりとリビングに目をやる。二人がけのソファーには誰もいない。
ただ、手前のテーブルに、白い花が生けてあるだけ。
私はふっと息を吐いた。

「愛してる」

彼が私にそう言ったのは、どれくらい前のことだっただろう。
戸棚からクッキー缶を取り出しながら、そんなことを思う。
あの時は、自分もだと言って笑っていた。
小皿を出して、アーモンドやチョコレートの入ったクッキーを二枚ずつおく。
バターと砂糖の甘い香り。
変わらない匂い。

お湯をコーヒーポットに回し淹れる。
誘うような香りに急かされながら、私は容器を用意した。

ウエッジウッドのペアカップ。
ソーサーの上にスプーンと一緒に置けば、澄んだ高い音を奏でる。
今の私には、酷く不釣り合いな調べ。

コーヒーをカップに注いでいく。
艶やかな白を染めて行く黒い液体。
その温度に侵されて行く冷たい白磁。
……匂いだけが、華やかに漂う。


二人分のコーヒーとクッキーを持って、リビングに行く。
静かにそれをテーブルに並べ、私はソファーに腰を下ろした。
低反発のクッションが私の体重だけを受けて沈む。
眠りに落ちる前のような、重く心地良い感覚。
一気に襲ってきた眠気をおして眼を開けば、コーヒーはほこほこと湯気をたてていた。
その靄の向こうに、白く、小さい花が生けてある。
私はそれに手を伸ばした。


鈴蘭。小さく白い花。形はまるで鈴のよう。
花の一つを、指ではじく。
当然、音はしなかった。


私はコーヒーカップを手に取る。
口許に運べば、温かい香り。


鈴蘭。
花言葉は『幸福が戻る』
誰がそんなことを言ったのだろう。


「毒があるくせに」


呟いて、香り高い黒を飲み込む。
匂いに反して、その味は酷く苦い。
舌に滲みる。
私にブラックなんて飲めない。

顔をしかめて隣を見る。
テーブルの上で、飲み手のいないコーヒーは香りをばらまきながら冷えていく。
……あぁ、もう一口。


鈴蘭。
花言葉は『幸福が戻る』
どうして、来てはくれないのだろう。戻さねば駄目なのだろう。
どうして、幸福は私のもとを――。

目に映る景色が、熱く揺らいだことを合図に、私は黒を飲み下した。




君影草 キミカゲソウ
(貴方の影は)
(まだ、)

 

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