蒼海の王に花束を。

□観察2日目
3ページ/20ページ


「それじゃあ、この化学反応を…誰に解いてもらおうかな?」

一限目、化学。
教室なのに白衣な教師が気にはなるけど、今日は実験じゃないから、大丈夫。
でも、内申アップの為か挙手率が上がった教室は何だか異様で、少し居心地が悪い。

「んー…それじゃあ、手を挙げていない銀嵐」

「…はい」

「黒板に書いて」

名簿があるのだろう、教卓に視線を落とした教師が虚をついて、挙手していなかった銀の名を口にする。
返事をする声が、低い。
椅子を引いて立ち上がると教科書を片手に黒板の方へと歩いていく。
数人の女子が、クスクスと笑う、小さな声が聞こえた。
黒板にチョークが当たる音が響き、少し複雑な反応式が書き連ねられていく。
筆記体に近い銀のそれは、書きにくいはずの黒板上でも整っていて適度な大きさで真っ直ぐ横に並ぶ。
よく女子が書く、丸い癖字とは違って、書き慣れている雰囲気がある大人びた綺麗な文字。
チョークを置く小さい音と教科書を閉じる音が重なって、銀が教師を見る。

「はい、よくできました。
授業には参加するようにな」

「………はい…」

面倒くさい…そんな顔で、やっぱり低く渋い返事。
教壇から戻ってくる銀を見送る教師は苦い笑いを漏らしながらも授業を続ける。
女子の笑い声が消えていて視線を巡らせると、やはり数人の女子が銀を盗み見るように、睨み付けるように視線を向けていた。
嫌な感覚と嫌な予感で、胸がざわついた。
着席した銀が資料集を開く。
その動きが止まる瞬間を、俺は見逃さなかった。

「こっちもか…」

本当に小さな、多分、銀自身も無意識の呟き。
呆れたような溜め息と同時に閉じられた資料集。
授業は進み、教師が資料集を見るように言っても、資料集を元に授業を進めても、銀が資料集を開くことはなく、教科書を読むばかりで。

「これ、テストに出るよ?」

以前に、蓮二から聞かされていたポイント。
小さく声をかけてみれば、教科書に落ちていた視線だけが俺に向く。

「…だろうな」

酷く無感動で無感情な言葉が返ってきて、視線はまた教科書へ落ちてしまう。
教師が指定したページには、銀が黒板に書き記した反応式の実験の流れが写真で並ぶ。
資料に落丁でもあったのだろうかと、銀の目を盗んで、俺は銀の資料集に手を伸ばした。





バァンッ!





凄まじい音に、教室中が振り向いた。
資料集を叩いた音だった。
あまりの音の大きさに、俺も止まってしまう。

「…虫が資料集にくっついていたので、咄嗟に…申し訳無い」

銀の言葉に視線は散り、まるでタイミングをはかっていたかのように終業のチャイムが響いて。

「起立、礼」

『ありがとうございました』

日直の号令とお決まりの挨拶で授業が終わる。
銀は、まるで奪うように俺から資料集を取り上げ鞄にしまいこんでしまう。

資料集には虫なんていなかった。

即座に鞄をロッカーに放り込み、さらに鍵をかける。
昨日肉離れした右手でのみ全てを行う銀。
よく見てみれば左手をきつく握り締めている。

銀は振り向きもせず、左手を握り締めたまま、教室を出て行ってしまった。

無人の隣の席。

一昨日まで、机さえ無かった場所に机が置かれて、席が出来て。
一日しか経っていないのに。
誰もいなかったことの方が普通で、いつものことで。

それなのに。

強い虚無感が、俺を襲った。


.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ