蒼海の王に花束を。

□前述
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「すまないっ、大丈夫かい?」

急いで蛇口を閉めるとホースは大人しく水溜まりに横たわった。

「問題無い、濡れただけだ」

少女の言葉は硬質で、それでも俺の問いかけに頷き、彼女は濡れた髪を掻き上げた。
被った水と、夕日の光で濡れ羽のような艶が走る黒い癖髪。
黒い瞳が真っ直ぐ俺を見つめてくる。

「この学校は、用務員ではなく生徒が水撒きするのか?」

黒い瞳が俺の手元にあったホースへ一瞬だけ動き問い掛ける。
水撒きのことを問いかけているらしい少女に、曖昧な笑みを返した。

「用務員もするけれど、基本的には委員会の仕事なんだ。
…それに、俺自身苦じゃないから」

「そうか…好きなんだな、植物が」

少女の顔が柔らかく笑む。
夕日の赤い世界の中、少女のその笑みは、微かに俺の心を揺らした。
つられるように表情筋が緩んでいく。

「あぁ、忘れるところだった。
担任に言われたのだが…」

少女の笑みが消え、声も顔も硬質なそれに戻ってしまう。

「明日から同じクラスらしいから、よろしくしておいて欲しい」

「……え?」

日本語。
きちんとした日本語。
それで話していたはずが、あまりにも聞きなれない未来形に、思わず固まってしまう。
そんな俺に、今度は笑い出した少女の笑顔は酷く楽しそうで、先程の笑みよりも印象的だった。

「転校生だ」

少女のその一言で理解する。
少女は笑いを納め、それでも笑顔のまま続ける。

「このびしょ濡れの件は、貸し一つと言うことで…明日、校内案内してもらえると助かるんだが、どうだろう」

「あぁ、元は俺の不注意だ。
明日の昼休み、なんてどうかな」

「じゃあ、また明日」

少女は、そう話を切り俺に背を向けて校舎の方へ歩き出した。
俺もホースの後片付けに戻るが、不意に力強い足音が鼓膜を揺さぶった。
顔をあげる。
眼前を黒い影が走り抜けた。

遅れて来た風と共に、花壇を跳び越えた後ろ姿。
プリーツのスカートが翻り、黒いスポーツパンツが露になることも構うことなく、勢いを失うことなく、少女はフェンスさえも跳び越える。

太陽が急激に落ちた暗闇に、少女は消え去った。

外れたホーストリガーが、夏の夜のぬるい風と少女が巻き起こした風で、音を立てて転がった。







この日、この時に、始まった。
それは、今年一番暑い日の邂逅。
残暑厳しいある日のことだった。

(女子と普通に喋ったの、何年振りかな…)



NEXT…観察1日目


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