10000HIT企画

□夢境
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「兄上、兄上」

弁丸は、私を兄と呼ぶだけで嬉しそうに笑う。
冬の一件以来、弟である弁丸は何かと私の後をついてきてなにをするにも共にあった。城内ではまるで鴨の親子のようだ、と噂をされるほどに。



子の刻を過ぎた頃。
信之は読んでいた書物を中断し、襖を見やる。廊下から板のきしむ音が聞こえたのだ。
しかし、その音の主は一向にこちらへ声をかけてこない。不審に思った信之は痺れをきらし、「誰ぞ」と問いかける。
すると、廊下から戸惑ったような息を呑む声のあと、「弁丸です」と、消え入りそうなほど小さな声が夜の静寂に響いた。

「弁丸か。このような時間になにをしておる。入れ」

声をかければ遠慮しがちに弁丸は戸を開けた。
寝間着用の白い襦袢に身を包んだ弁丸は、細い肩をふるわせているようだった。
自分とは違う深い翡翠の瞳は涙で濡れているように見える。
透き通ったガラス玉のような瞳は不安そうに揺れていた。
用件を切り出すのを目で促すと、視線を反らしながら
「怖い、夢をみたのです」
と小さく呟いた。

ちらり、と伺うようにこちらを見てくる。
この兄に言いたいことがあるのだろう。
しかし、曲がりなりにも武人の子である。それを口に出すことがはばかられると思っているようだった。
信之は小さくため息をつくと読みかけていた書物を閉じる。
不安そうに見つめる弁丸の前を横切ると布団の敷いてある隣室のふすまを開けた。

「弁丸、こちらへおいで」

そう呼びかければ、不安そうに揺れていた弁丸の瞳が喜色に染まる。
失礼します、と小さく言うと空けた布団に滑り込んできた。
成人に満たぬ子供であるが、二人で横になればくっつかなければ少々狭い。

「兄上、兄上」

身を寄せて嬉しそうに笑う弁丸に、愛しい気持ちがこみ上げる。ほぼ無意識に、その無防備な額に口づけを落とした。

「……?」
「まじないぞ。これで今宵はもう悪夢を見ることはあるまい」
「はい!兄上も一緒なので、怖くありません」

まるで疑うことも知らぬ無垢な存在は、嬉しそうに笑う。

その口づけの意味を知るのは、まだ先になるのだろうけど。
小さい弟を抱き寄せながら、信之は瞼を閉じた。

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