神様ドォルズ

□空気力学と少年の詩
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(…どうする?)

 匡平は逡巡しつつ立ち尽くした。
 ここまで必死で走って、藪を抜けてきたので息が荒い。
 この雑木林を抜ければ座敷牢の裏手に出る。
 だが、屋敷が見えてきた今になってどうでも足が進まない。

(何でだよ、阿幾…)

 阿幾が先生を殺した。ずっとそう信じてきた。
 あの虐殺の血の海。切り裂かれた死骸の山。うつ伏せに倒れていた千波野。
 彼女は下着姿だった。それだけで何があったか察せられた。

「これ全部お前が…やったのか?暗密刀で」

 血が煮え滾る。それを必死で押さえつつ発した問いを阿幾は否定しなかった。
 阿幾は笑っていた。
 返り血を浴びて凄惨な姿でありながら、暗密刀を愛でる彼を美しいとすら思った。
 遂に狂気が幼馴染を侵蝕し尽くしたのだ。

 だから、匡平は阿幾が先生を、千波野を殺したのだと思った。
 村はそれだけの事を阿幾にしてきた。
 先生の事はきっかけだったに過ぎない。
 犬のノォノを殺され、千波野を篤史達に汚されて、逆上して目に入る全てを壊したのだろう。
 千波野を助ける代わりに巻き込んで、背中から刺し殺したのだ。
 阿幾は村の全てを憎み、疎んでいた。
 暗密刀を取り戻した代償に胸の奥に溜め込んだマグマを噴出させたのだろうと。

 匡平にとって、千波野は憧れの女性だった。
 清らかで、村の汚濁に汚されるべきでない存在だった。
 だが、一番望まない形で死んだ衝撃は匡平を誤解による怒りの渦に叩き込んだ。
 匡平はそれを全部阿幾にぶつけた。

 今になって思えば、匡平自身も解っていたのだ。
 ここに至ったのは阿幾のせいではないと。
 千波野も聖女ではなく、ただの弱さを持った女であり、同じ境遇の阿幾と近付くのは何の不自然もなかった。
 村が彼らを追い詰めたのだ。

 だから、阿幾は笑っていたのだ。
 匡平の本性を見抜いて。
 匡平の怒りは阿幾が先生を殺した事でも、殺戮を行った事によるものでもない。
 口先ばかりで、この破局に何の関わりも持てなかった。
 何も変えられなかった。
 自分の無力さを思い知らされた子供のやり場のない八つ当たりだ。
 阿幾は怒りを暗密刀に乗せて外へ解き放ち、匡平は自分の中に渦巻く怒りの矛先を阿幾に向けた。それだけだ。

 屍骸の破片と血の海の果てに暗密刀と向き合って立っていた阿幾は、立場が違えばなっていたかも知れないもう一人の自分だった。
 だが、結局立場が代わるという可能性すらなかった。
 自分は貴重な隻で「匡平様」であり、所詮お坊ちゃんなのだ。
 それをかなぐり捨てねば、千波野や阿幾の所までは落ちられない。
 あの頃の匡平にそんな度胸も覚悟もなかった。
 隻だから通る意見や地位に甘え、それに寄りかかって、最後まで解決しようと思った。
 それでいて、かなわぬ事を怒り、打ち震えて、阿幾に拳を振るってる。
 村に対しては空回りする拳も、阿幾になら当たる。
 阿幾は受け止めてくれる。逃げもせずに。

(…けど)


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