短編1

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「ずっと、苗字さんの事が…!」

「お気持ちは嬉しいんですが…、ごめんなさい」


好きな人がいるので、と続けるとその人は困ったように笑いながら去って行った。
この光景は何度も見た。ただ、毎回違うのは走り去っていく人だけ。
好きな人がいる。それは嘘じゃない。
でも叶うことは絶対にないから想ってるだけ。



「で?もしかして"好きな人は王子先輩です"なーんて言うんじゃないでしょうね!名無しさん!」

「え、いや、あの…」

「なーんで名無しさんもそこまで隠すかなー?私たち応援するし、手助けとかするのに。ね、奏?」

「もちろん!今更私たちの間に隠し事なんか不要よ!いい加減吐きなさい名無しさん!」

「か、奏!離して!響も見てないで止めてよ!」

「好きな人教えてくれたらいいよ」



さっきの告白の後、私は授業をさぼって、裏庭で明日のコンクールの練習を兼ねて得意のフルートを吹いていた。
授業が終わってから、響と奏はそのフルートの音を聞きつけて裏庭までやってきてくれたらしい。
学年内ではいつの間にか私が告白されていたのが噂になっていたらしく、事の真相を確かめようと響と奏に問い詰められている状態だ。


「さあ吐きなさい名無しさん!貴方の好きな人は王子先輩なの!?」

「違うって!」

「じゃあ誰?」

「そ、れは…」


言えない。言えるわけない。
私の好きな人は響のお父さんの北条先生なの、だなんて口が裂けても言えない…!
響にバレたら色々と厄介な事になるし、奏にバレたら色々お節介焼かれそうだし…!
こうなったら…!


「ごめん!それだけは本当に言えない!」


そう言い残して二人から逃げ出した。
逃げ出す先はもちろん音楽室。あそこは一番気が落ち着く。それに周りを気にしないで好きなだけフルートを演奏できる。
運動神経抜群な響に追いつかれないよう、私はフルートと楽譜を抱えて必死に走った。






「はぁ…、はぁ…。こ、ここまで、くれば…、もう大丈、夫かな…」

音楽室はかなり性能のいい防音対策が施されているので、音楽室のドアを閉めちゃえばフルートの音は一切漏れない。
乱れた呼吸を整えてから、私は目をつむり北条先生の事を想いながらフルートを吹く事に集中した。






「…ふぅ」

「Ich bin gut!Es ist ein sehr herrlicher Laut(いいね!とても素晴らしい音色だ)」

「ふわぁあっ!ほ、北条先生!」


演奏が終わって気を抜いたら、後ろから北条先生の声がした。驚いた私は、思わず譜面台を倒してしまう

「おっと。大丈夫かい?…それにしても、すごくいい演奏だった。強弱、ロングトーン、どれも完ぺきだ。Ich bin das Beste!(最高だよ!)」

「あ、ありがとうございます…!」


たぶん、北条先生の事を想いながら演奏したからですよ、だなんて口が裂けても言えず練習の成果ですと言葉を濁しつつ素直に評価を戴いた。
先生にこんなに褒めてもらうのって初めてかもしれない。凄く…、うれしい…!
どうにかして先生ともう少し話していたかった私は先生を明日のコンクールに誘ってみることにした。もちろん、本心は隠して音楽家の先生として来てもらえるように。


「あの、北条先生…!明日コンクールがあって…。よろしければ、先生にも来ていただきたいんですが!」

「あぁ、明日か。すまないね。明日は久しぶりにまりあが日本に帰国するんだ。久しぶりに家族3人で過ごせるからね。明日は食事にでも行こうと思って」

「あ、そう…、ですか。じゃあ明日はきっと幸せな一日になりますね!」

「あぁ、ありがとう。そのかわり、今、練習を見て行ってあげるよ」

「ありがとうございます。お願いします」


私は何を浮かれてたんだろうか。
この人は結婚していて、子供もいて、私なんかとは全然違って。
少しでも先生に近付けた、と思ったのはどうやら私の自惚れだったらしい。今更になってそれに気付くなんて。
目にゴミが入った。そう言ってトイレに駆け込んだ私はただひたすら、声を殺して泣くのだった。



辛い幸せ

(Machen Sie sein morgen am besten)
(明日、頑張ってね)
(その一言を聞いた時、立っている世界すら違うのだと思い知らされた)


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