千夜一夜
□八夜
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「世の中ってのは単純に出来てんでさぁ」
今まさに、「放っておいて」と言いかけた時、総悟くんが徐に口を開いた。
聞こえた台詞に、何を言うのだろうと気になって、開きかけた口を閉じる。
「単純に考えられなきゃ、生きていけないんでさぁ。名前…あんたは複雑に考え過ぎなんでィ…」
私が、複雑?
いつだって、単純に考えてきた。
居場所を失わずに済むように、いつだって、物事は単純だったというのに…。
幸せになんて望めない。
だから望んだりしない。
愛してなんて、そんなことを思っては生きていけないから、微かに残る思い出さえ捨てたのに…。
「…複雑、ですか?」
よくよく考えてみたら、単純も複雑もないのだ。
考えないこと。
意思など持たぬこと。
そうやって、生きてきたのだから…。
「呆れるくらい複雑でィ…。もっと素直に受け止めなせぇ。相手も、自分も…。でないと、アンタ、死にやすぜ?」
死ぬ?
そんな大袈裟な話なのかと驚いて見るが、もちろん見えるワケもなく…。
そこでようやく、アイマスクをしたままだと気付いて、顔に手をやった。
「…何勝手なことしてんでィ…」
握られた手をそのままに、もう片方まで取られてしまう。
「もう必要なくないですか?」
無理だと告げた時点で終わった気でいたから、何故ダメなのかと聞けば、「まだダメでさぁ」と返されてしまった。
暗闇は、落ちつきはするけれど、なんだか心もとない。
「…名前が自分で出来ないってんなら、オレがしてやりまさぁ…」
はい?
「…え?するって…何を?」
まさか…と考えて、いやいやまさかと、それを否定してみる。
解かれた手がぱたりと布団に落ちて、総悟くんがついた溜息が頬を擽った。
「…な、何…?」
すぐ近くに顔があるのだと気付いて、慌てて身体を起こそうとしたら…押さえつけられてしまった。
「…苗字…」
「………え?」
いつも名前で呼ぶその声が、いきなり苗字を呼んだものだから、余計に焦る。
私の近くにそう呼ぶ人間は一人しかいないのだ。
「…黙って大人しくしてろ…」
聞こえる声色は総悟くんなのに、その口調は土方さんにそっくりで…。
…混乱してしまう。
「俺に触られたかったんだろ?」
違うという言葉が声になることはなかった。
聞こえた台詞を理解した時には、暗闇にあの日の土方さんが浮かんで…。
私の脳はいとも簡単に騙された。
肩を押さえていた手が撫でるように下がって、躊躇う素振りもなく胸元に侵入する。
素肌に触れた指先は、驚くほど冷たかった。
記憶にある体温と違う…そう思って身体が強張ったのは一瞬。
すぐに、目的のものを探し当てた指に翻弄され、力が抜けていった。
与えられる感覚に身体が震えて、一気に熱が上がる。
それがあまりにもあっという間だったから、総悟くんの言ったことは本当だったのだと、受け入れざるを得なかった。
身体は与えられるものを欲しがっていて、それはまるで、飢えを満たされるのに似ていた。
零れる吐息も満足げで。
自分の身体なのに、自分じゃないみたい…。
そう思ったら急に怖くなって、今だに胸を弄ぶ手を抜き取ろうと掴んだ。
「…苗字…余計なことすんな…」
「で、でも…」
「気持ちいいんだろ?我慢すんなよ…」
掴んだ手を振りほどかれて、火照った肌を風が撫でる。
それにすら震えて、それが胸元を開けられたせいだということに気付けないでいた。
「…んぁ…や…」
指先よりも熱いものが触れて、その濡れた感覚にようやく気付いたほど、呑まれてしまっていた。
もっと、もっとと欲が出る。
倒れてしまうほど飢えを訴えていた身体は、やっと与えられたものに貪欲になって…。
まだ足りない、こんなものじゃないと、一度だけ与えられたものを思い出して、はしたなく強請りはじめた。
…ついていけない。
置いていかれてしまう。
覚えのある感覚を必死で堪える。
あの時は無我夢中で、堪える術も知らなかったから、流されるままだったけれど…。
一度耐性が出来たせいか、その時ほど一気に昇りつめることもなく、止めた息を吐いて気を逃す。
波が去ったと安心した途端、それを許さないとでもいうように、与えられる快感が強くなった。
「…ん…やっ、やぁ…」
指が触れていたそこに生温い風を感じたと思った次の瞬間、抗えないほどの痺れが全身を襲った。
「…我慢すんなって言っただろーが…イケよ…」
聞こえた言葉に首を振って、ギュッと布団を握ってやり過ごそうとはしたものの…結局は、その波に呑まれてしまった。
…怠い。
息を整えながら余韻に浸る身体は驚くほど重くて、ただ呆然としたまま落ち着くのを待つ。
「…ダメですかねィ…」
ぽつりと呟かれた言葉が聞き取れなくて、何を言ったのかと聞き返そうとしたが叶わなかった。
「…ちょ…も、無理…で…ぁ…やだ…や…ま、待って…」
休む間もなくまたも与えられだした快楽。
逃げ出したいと心は叫んでいるのに、身体は当たり前のように受け止める。
まだ足りないの?
自分自身に問うものの、答えなど得られるハズもない。
瞬く間に呑み込まれていく。
舌先だけの愛撫では足りないと訴えだした身体を、宥めようとはしているのだ。
間違ってもあられもない言葉を発したりしないようにと、唇を噛む。
その様を笑ったのか…一瞬唇が離れて、吐息が擽った。
…そういえば…あの時も…。
必死で呑まれないようにと自分の手を噛んで堪えていた私を、土方さんもそうして笑った。
「…土方、さん…」
それを思い出した途端、頭の片隅にいた総悟くんは消えて…。
暗闇にぼんやりと浮かんでいた土方さんは、色も体温も持った実体となっていた。
一度その名を呼んでしまえば、身体も心も騙されだす。
今、この時、私を翻弄しているのは…あの日の土方さんだった。
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